2010年12月31日金曜日

衝撃の事実!!!

すごい久しぶりに日本での年越し。
新潟のこの辺では、年越しは31日のお昼にやる習慣らしい。
なんでか?って話をしていたんだけど、結局私の「昔は夜暗いから」が採用された。(家族会議で)

そしたら、おじーちゃんがぼそっと、
「昔はこの辺の正月は2月にやってた。
私「それって、春節じゃん。中国だ」
じ「旧暦だ。昭和20年ごろ、戦前までは旧暦で正月をやってた」

おおまいが~!!
おそるべし、中華文化のアジアでの浸透度!
私にとっては、衝撃の事実だった。

2010年12月27日月曜日

ロシア語圏の謎

Gブログは、「統計」って所をクリックすると、どの国で何回このブログが開かれたかがわかるよね。
日本、カナダ、アメリカ、タイなどは友人・知人がいるからある程度の閲覧記録があるのはわかる。

東南アジアの数カ国から数回の閲覧もあった。これは回数が今までの合計でもほんの数回なので
意図的に、というよりたまたまこのブログを開いてしまったのだろうと予想できる。

わからないのが、ラトビアとウクライナ。
知り合いはいないし、行った事もない。日本人もそんなにいそうにない。(もちろんいるだろうけど)
しかも、ラトビアは今までで30数回。週単位で見ても、何度か閲覧されている。
ウクライナは今週だけで既に数回。たまたま覗いてみたというより、ある程度誰かが意思を持って
時々チェックしていると予想される。

その地域にいる日本人だろうか?
その地域で日本語を勉強している現地の人なんだろうか?

2010年12月23日木曜日

中国⑦急性肝炎

ある日、朝起きると、何かが変だった。でも何がどうおかしいのか自分でも分らない。
とりあえず顔を洗おうと洗面所に向かった瞬間、みぞおちの辺りがぐらっと揺れた気がした。
で、目もかすんできたみたいで、とにかくみぞおち中心に身体がぐらぐらする。
何かがおかしい!と本能的に悟り、とにかくベットまで戻った。
運転手が7時過ぎに迎えに来ることになっている。病院に行くなら9時過ぎでいいから、まだ家を出てないようなら遅くていいよ、と電話をいれた。既に「こっちに向かってるよ」状態。事情を話すと、「いいよ、下で9時過ぎまで待ってるから」とのこと。こういうとき、中国人は意外と優しい。

ベットに転がって動かなければ問題ない。どこが痛いとか、苦しい訳でもない。でも何かおかしい。
病院が開く時間まで待って予約を入れる。なんとか用意して、車に乗り込む。
例の血液検査が好きな日本人先生のいるクリニックへ行き、事情を話す。例によって、血液検査を行なう。これがよかった。急性肝炎でガンマG何とか数値?が平均40から大きく超えて、980。その他の数値も大きく平均値を超えていた。すぐに、B型、C型肝炎の検査も追加する。違った。

先生「と、いうことは、A型かE型だと思うんだけど、ここではこれ以上検査出来ない。中国の場合、肝炎は普通の病院じゃなくて、国家管理化の衛生局で扱うことになるから、肝炎が検出されると伝染病隔離病棟に入れられることになってるんだ。(→A,E型肝炎は伝染病じゃないけど)そうなる前に、日本に帰国したほうがいいと思うよ。これ以上数値が上がらなければ、多分自宅療法で済むはずだから。ただ、これ以上上がると劇症化する危険があるから、そうしたら強制入院だけどね」

すぐに上司に連絡し、緊急帰国の旨を伝え、チケット手配の電話を入れる。それから実家に電話を入れると、なんと母方のおじいちゃんが、危篤だというではないか!?ちょっとぼけかけてたけど、身体は健康そのものだったのに、何事?。。。
とりあえずチケットが決まったらかけ直すといい、便が決まったのを確認してから実家に電話を入れると、
おじいちゃんが亡くなったそうな。。。。 なんだ、このタイミング?

私の実家は新潟。おじいちゃんは埼玉に住んでいる。飛行機は成田に到着。
なので、実家に行く前に埼玉で一休み(肝炎で移動はどこも痛くないけど、けっこうつらい)と思っていくと、式場手配の関係で、ちょうどその日がお通夜。駆けつけた親戚一堂と一緒に私も少し顔を出す。
だけどだるくて仕方ないので、ご遺体が置かれた部屋でおじいちゃんの棺の横で私も横になっていた。

その日はおばさん宅に泊めてもらったけど、やっぱり翌日のお葬式には動けなくて出れなかった。
肝炎は朝が特につらい。途中で式場から私の様子を見るために電話がかかってきたけど、受話器を取ることすら出来なかった。どこも痛くないのにね。。。とにかく身体の中からエネルギーを抜かれて何も出来ないって感じだ。しばらくすると、おばさんが家まで私の様子を見に来てくれた。動けるか?と試してみると、今度は何とか動けたので私も途中からお葬式に参加。
焼きあがった後のお骨拾いだけ参加できた。

そのまま両親は残り、私は妹と先に二人で新幹線で新潟に戻る。
翌日は全然動けず、自宅療養。翌々日に地元の病院へ数値を図りに行くと、980から下がってもいなかったけど、上がってもいなかったので取り合えず自宅療養開始。因みに検査の結果、A型じゃないとの事だったので、先生いわく、「おそらくE型だろうと思われます。何か、不潔なもの又は生ものを口にしましたか」?
「そういえば、1週間くらい前に食べ放題の刺身を。。。。でも、日系の高級レストランですよ」

自宅療養というのは、とりあえずじ~~~っと寝ていること。食事とトイレとお風呂以外のときはベットから離れなかった。というより、動けないんだな、本当に。本能的に動いてはいけないのが分る。
だけど、どこも痛いわけじゃないし、口だけは達者なので皆「本当に病気なのかい?」。
でも、良く寝れた。あんなに昼間ず~っと寝ているのに夜も又寝れるというのは普通じゃない。
「寝れば直る」って事実だと実感した。

それから3週間自宅療養後、再度病院で検査すると、980だった数値も80まで下がっていた。平均40なので、まだ完全復帰じゃないんだけど、通常の生活には戻れるとの事。
犬の散歩にも行ったりして数日を過ごした後、上海に戻った。

めでたし、めでたし!

中国⑥色んなマイナーな不調が続く

上海で仕事をしていたとき、色々マイナーな問題でも早めに病院に行くようにした。
今まで、「まあ、いいか」ですぐに対処しなかった結果めんどうな事になった気がしたので、反省も含めて。

①かなりタチの悪い頭痛で顔色が悪くなる上に浮腫んでいるので日本人医師のいるクリニックへ行った。
この先生、血液検査が大好きで、大したことないと思われる頭痛でも血液検査をしてくれた。もちろん、問題なし→私の希望でバナナパック点滴をしてもらい、帰宅。点滴後30分位で頭痛も直った。これは保険使ってるから金額不明。

②肩甲骨に沿っていくつか大きな吹き出物が出来る→今まで背中に吹き出物なんて出来たことなかった上に、出ている場所が変なので、なぜかとっさに、「腎臓か肝臓がわるいのかな?」と思い病院へ。静安寺近くの外国人向け「特別科」のある病院へ。かなりVIP的なふかふか絨毯のフロアーで、日本語通訳までいた。必要ないから断ったけど。ここも、保険があったので金額不明。とりあえず、皮膚科の先生に診てもらう。
先生「にきびだね」
私「そんなもん、出来る年でもないんですけど。今まで背中にこんなもの出来たことないし。内臓とかどこか悪くないですかね?」
先生「ただのにきびだよ。血をきれいにする漢方出すから飲んでみて」

で、既に小さな瓶につめられている液体状の漢方薬を1か月分くらい貰った。飲みきると少し良くなっているようなので、そのまま数ヶ月続けた。

③外陰部に腫瘍?と思われるような出来物が出来た。→パニクって日本人医師のいるクリニックに電話すると、産婦人科医は2週間後にしか来ないとのこと。とにかく予約を入れる。→看護師の資格を持っている友達に電話する→抗生物質の軟膏をとりあえず塗ってみたら?と言われ、実行→1週間位で直った。
でも一応、予約を入れたので念のために病院にも行った。
事情を説明すると、「へえ~、どこにあったの?指で指してみて」。
「ふ~ん、きれいに直ってるね。何もないよ。もしそれが癌だったら、今頃こんなにピンピンしてないって」
ごもっとも。一応一通りの検査をしてもらい、終了。何事もなかった。

2010年12月21日火曜日

中国⑤最悪のヘルニア

ようやく子宮糜爛の治療が終わって体調も良くなりかけたころ。
ある朝起きたら、まっすぐ立てなかった。
おばあさんのように腰が45度に曲がったまま、それ以上直立が出来ない!!
背中を伸ばそうとすると激痛が走る。最悪のヘルニアが出た。

止せばいいのに、今までの経験からヘルニアなんて、マッサージするか、コルセット巻いて痛み止め飲めば数日で良くなるだろうとタカを括った。で、家の近くにあった「漢方総合病院」に行った。
ここはいわゆる「マシな類の人民系ローカル病院」。だけど、成都時代の診療所の奇跡的な治療マッサージに感動したことのある私は、ここが「特別科」のある総合病院よりいいだろうと判断した。

で、「グアハオ」してから「治療マッサージ」科に行く。
レントゲンかCTを取らないと悪い箇所がわかんないし、そもそもヘルニアかどうかの診断も出来ないから治療出来ないといわれる。私は、ヘルニア歴長いんだよ、こんなの自分でわかるよ!と思いつつも埒が明かないので同じ病院でCTを取りに行く。レントゲンだと良く見えないと又CT取る羽目になるから最初からCT取ったほうがいいよという医者の薦めに従ったのだ。今思うと、そっちの方が高いからだろうけど。
で、やっぱりヘルニアって事でマッサージが始まる。
こねたり引っ張ったり、手のつぼに針刺したり。。。色々やっても成都のときのような劇的な変化はない。
ここでも又、「何が何でもなんとかしてくれ」って事で、

①通院による点滴(体液の流れを良くして痛みを取るらしい)
②漢方薬の処方(骨とかを強くして、気の流れをよくするらしい)
③牽引と温熱療法
④漢方シップ(チベット系の黒い漢方薬がべっとりついた強烈なシップ)
⑤コルセット
⑥針

による治療を始めた。毎日通院した。
当然不自然な前傾姿勢が直るまで会社は休むしかない。
本当は医者は「手術だな」とのたまった。
こんなところでメスを入れるなんて冗談じゃないと必死に抵抗した結果が上記の対処法だ。
中国の医者に患者を思いやる気持ちを期待するのは間違っている。皆ずけずけという。
「こんな腰じゃ、子供なんて産めないぞ」。痛みで十分参っているところに追い討ちをかけるこの台詞。
さすが中国だ。しかも、そんなこと今聞いてない!私が手術しないって言ったのが気に食わないのか?!
因みに上記の治療全てで1万元以上かかった。保険無し。

これを1~2週間しても大きな改善は見られなかった。
出来ることは全部やったのに、今までのようにはっきりとした改善が見られないことに焦った。
いくらひどいぎっくり腰でも、皆それなりに動いてるでしょ?私みたいに前景姿勢でよたよた動いてる
ぎっくり腰がこんなに長期間続いてるのはみたことない!!

で、中国に多い怪しい治療法の広告につい目が行き、わらにもすがる思いで違う病院に行った。
それは、つまり「中国とドイツが共同開発した、その2つの国にしかない特別な牽引機械で一気にヘルニアを治す」というもの。横にちゃんと立てなかったおばあちゃんが、背筋を伸ばして立っている写真まで載っている。ここまで来ると、「ちょっと位怪しくても少しでも良くなるなら!」という思いが勝った。

この病院のおじさん先生と看護師は共に感じが良く、親身になって
「大丈夫、この治療ですぐに良くなるからね。僕も前にやったことあるから。7年たつけど、それからヘルニアは出てないよ」と言ってくれる。ここまで来ると、治療法の有効性より、やさしい態度のほうがありがたい。前の病院から持ってきたCTを元にヘルニアの出ている部分を機械に打ち込んでいく。
治療室には、ベットとその横にコンピューター、足元に何だか良く分らない大きな機械。

ベットの上にうつぶせに寝かされ、手足と腰をベルトで固定される。一見、え?!拷問?って感じの状況だ。
「じゃあ、やるよ」って技師が言うと、いきなり意味不明のものすごい力で身体が上下左右、斜めなどに引っ張られた。足元に合った大きな機械とベットから「がっちゃんがっちゃん」とものすごい音がする。
まさしく、拷問。
しかも、「痛くない」って言ってたのに、ものすごく痛い!
これは「ギャーギャー叫ぶ類の恐ろしい痛み」だった。只でさえ、ヘルニアでうつぶせしてるだけでもつらいのに、これはあんまりだ。。。

施術時間自体は数分で終わり、背中にスースーするクリームを気休めに塗られた。
「こんなに痛がる人は初めてだ」とか言われながら、術後の点滴ルームにベットに乗せされたまま移動される。ここから4時間くらいかけて、6本の点滴を受けるのだ。多分、腫れを取る為だと思われる。
この拷問と点滴で、締めて3000元位だった思う。保険無しでね。

結果は、というと、奇跡的に背中が伸びた!
だけど今度は、前屈が出来なくなった。。。。
結局「温存療法」を実行する為に日本に戻り、針治療に通いながらそれから半年近くはベットの上で寝たきり生活をした。
時間をかければ自然に回復するもんだな~と思った。

中国④子宮糜爛

中国で仕事をし始めてからのこと。
この頃からは私立又は外人向け「特別科」があるいい病院にしか行ってない。
こういうところが四川時代の「人民系ローカル病院」と違うところは、まず最初の「グアハオ」の値段。
大体50~100元は取られる。しかも、先生に診てもらって、薬や治療法を提示されるときに必ず言われるのが、「金あるか?」。

つまり、どの位出せるかによって治療法、出す薬が違ってくるシステム。。。
地獄の沙汰も金次第!

当時シンセンで働いていた。上司がたまたま中国で婦人科の医者をやっていた事がある日本人だった。
生理の前後で左の卵巣付近に不快感が続く上に、最近生理のときに出血量が昔と比べてかなり少なく、このままひっからびたりして~ということを何かのついでに話したら、すぐに病院に行って調べろとアドバイスされた。会社のすぐ前にいい感じの私立病院があったのでそこに行く。
幾つかの検査を行う。結果もすぐに出た。

いい感じの中年女医先生がいうには、「子宮頚糜爛」つまり、膣と子宮の連結部分が爛れてるという事。
原因は、まあ、色々あるんだけど女性ホルモンが多い20代の女性の70%は糜爛が多かれ少なかれ、あるらしい。私の場合は、治療が必要な位ひどかったというだけ。思い当たる節は多すぎた。
ここでも、「金はあるか?」。と親身に聞かれた。。。
「金は糸目をつけないのでちゃんと治療してください」ということで、

①抗生物質の点滴と服用
②わけのわからんMRIみたいな筒型の機械に肛門から「お腹をあっためる」という漢方の液体を注入されたあと入れられ、電磁波で腹部を暖める治療。→炎症を取るらしい。
③レーザーによる患部の治療
④アフターフォローとして、1週間に1回を3回で患部にぐりぐりと消毒を施す

というフルコース治療を受けることになった。
合計2000元チョットだったと思う。保険無しでね。

特に③のレーザーは痛かった。麻酔もしないし。
私「痛くないんですか?」
医「痛くないわよ。少し重い感じがするかも。生理痛のひどいときみたいな」
これなら何とか耐えられるか?と思い始まると。。。

痛いじゃないか!!しかも、ギャーギャー叫ぶ感じの鋭い痛みじゃなくて、重苦しい感じの鈍い痛みが
下腹部全体に広がり、声も出ない。施術時間は5分程度なんだけど、終わったら顔色真っ青。
又抗生物質化何かを点滴されて、午後から会社に行った。
何も知らない同僚が、「どうしたの?顔色悪いよ」
すごく痛かったんだよ!!声も出ないくらいに!
レーザーの後にも患部にぐりぐりと消毒液をすり込まれた。これも痛い。

人生初の「肛門に何かを突っ込まれる」+レーザー体験をした結果。
良くなった!レーザー後、1~2日で今まで何をしてもだるくて、食欲もなかったのが
ちゃんとおいしく食事が出来るようになった。左下腹部の不快感も、だるさもうそみたいになくなった。
やっぱり、体内に「爛れて」いるところがあれが、体調がいいわけないよね~!!と痛みを忘れて現金に喜んだ。結論としては、中国に長い私の友人も言っているけど、中国の医者は結構優秀なのが多い。人口が多いだけに、こなしている数が違うから。あと、漢方も一緒に使ったりするから日本の僻地の大学病院に行くよりよっぽどいい。

ただ、その後数年後にネットで調べて思った。
中国だったから、あの時レーザー治療までしたんだな、と。
多分日本だったら抗生物質の投与で終わってると思う。中国は何かにつけ、「積極的治療」が大好き。
お金取れるからね。日本だったら温存治療をとる場合が殆どのものでも、すぐに切りたがる。これはホント。

インドで眼科に行く

インドには、スマトラ島津波の前後あわせて1年位住んでいた。

その時に、目に物貰いができた。
最初は良くある小さいものだったので、薬局で目薬を買って様子を見た。
でも、だんだん大きくなっていき、痛いし、コンタクトも入れられない。
諦めて、眼科に行くことに。
その時いたのは、南インド・チェンナイから南に60KMほどいったところにある
海岸沿いの観光地。内陸に30分くらいトゥクトゥクを飛ばして行った。

平屋の建物の中に人がいっぱいうろうろしてた。そこが眼科。
インド人と一緒に行ったので自分で受付などをしていないのでイマイチシステムは謎。
お医者さんはでっぶりど~んとしたおばさん。
機械はそれなりに近代的なものが置いてあった。
物貰いということで抗生物質入りの目薬を出される。既に薬局で買ったの試したんだけど、
効かなかったというと、これはもっと強いから大丈夫とのこと。

7週間くらいさし続けたら、本当に良くなった。
あの頑固な大きいものもらいが。目薬を差し始めてから、目やにがものすごく出るようになった。
特に夜さして寝ると、翌日の朝、目やにで目が開かないくらい。それがだんだん少なくなっていって、
物貰いも小さくなっていった。恐るべし!インドの目薬!

一般的にインドの抗生物質は日本のものに比べて強い。もしくは、量が多い。
1週間くらい熱が下がらなくて近くの診療所に行ったときも抗生物質を出された。
「あんまり強くないから大丈夫」との事だったけど、私には強かった。
全然直らなかった熱がすぐに下がったけど、代わりにお腹をやられた。
そこのお医者さんも、でっぶりで~んとしたおばあちゃんだった。インドには女医さんが多い。

2010年12月20日月曜日

中国③お見舞いで精神科へ

前にブログのどこかに何かの折に書いたと思われる、韓国人の友達の「統合失調症」騒ぎ。
彼女のお見舞いで卒業間近に華西大学病院系列の精神科にお見舞いに行った。

たしか、入院騒ぎも春だった。
お医者さんの説明によると、この時期おかしくなる人が一番多い時期だとかで、入院ベットも中々空がないらしい。だからMも個室じゃなくて2人部屋にいた。

なんていうか。。。。。柵無しの牢獄?みたいな部屋だった印象。
留学1年目にスリランカのモデタというクラスメートが腎臓か膀胱炎で1週間くらい入院してたときにも
お見舞いに行って「何がなんでも中国で入院だけはすまい」と心に誓った。位、人民が入る病院は。。。(まあ、10年前の話だけど)ひどかった。看護婦さんの爪も長くて真っ黒だった。。

成都には、「政府第○病院」系列があって、○の部分に1~10くらいまで数字が入っている。
モデタは第7病院だったはず。数字によって内科、外科、眼科、精神科、その他色々。。。と分けられているというような噂を聞いた(真偽の程は確かめてないから不明)

卒業後仕事を始めてからは、外国人が利用する「特別科」がある高級病院にしか行ってないから
この学生時代の体験がなければ、こういう人民のリアルな世界を見ることも出来なかったな~と思う。
そこに入院する嵌めにならなくてよかった。

中国②路上でヘルニア発生

中国滞在半年後位から、夜グランドを走り始めた。
しばらくやると、癖になり、走らないと「毒素が溜まった感じ」がしてきた。
というわけで、たまに「腰が痛いな~」と思っても無視して走ってた。

16の時、高校のスキー授業で久しぶりの得意のスキーをやったら「ぐきっ・・!」と来て
椎間板ヘルニアになり、1ヶ月くらいコルセット生活をしていたことがある。それ以来、大きなヘルニアは出ていないけど、寒くなると神経痛?は多少感じていた。

で、ある日大学近くの道を歩いていたらいきなり腰に痛みが走り、歩けなくなった。
一応立ってはいられるんだけど、全うに歩けない。。。
と、目の前に「診療所」の看板が。よろよろとわらにもすがる思いでそこまで移動。

状況を説明すると、おじさん先生は脈を取り、一通りの「漢方医的診察」を済ませた後に、
「マッサージか漢方の飲むか」といった。
(はあ~?ヘルニアって漢方飲んで良くなるものなの?)っていうのが私の感想。
「どんな作用が?」と聞くと、
「血液と気の流れを良くして腰周辺の滞りを解消する」
「マッサージは?それで良くなるんですか?」
「なる!」
この先生の自信に励まされ、マッサージを受けることに。
因みにこれは、良くある街中の「健康マッサージ」とは違い、「治療マッサージ」という。
時間も大体「健康」は1時間で全身をマッサージするんだけど、「治療」の場合は患部とその付近のみを20分前後マッサージする。

このときのヘルニアは、「うつぶせが出来ない」出方だった。
なのに先生は、マッサージベットを指差し、「うつぶせ」。
「いや、出来ない」→「出来る」→「うげ~~~!!」。
無理やりうつぶせにされた後、先生の他に2人のおばさんに取り囲まれた。
先生は色々「ここがこのつぼで、ここを押すと彼女はすごく痛い」とか言いながら、拷問のようなマッサージを続ける。本当に痛かった。ギャーギャー痛いと叫ぶ私を無視して、講義とマッサージ(拷問?)は続く。
これでもう私、このうつぶせ状態から動くことも出来ないほど壊滅的に痛めつけられた。。。と思っているとマッサージは終了。

「立ってみろ」と先生。そんなあ。。。無理に決まっていると思い、助けられながら身体を起こし恐る恐る立ち上がると。なんと!!マッサージ前の痛みレベルが100、マッサージ中が120だとすると、マッサージ後は40位にまで回復していた。恐るべし、拷問マッサージ!!
とりあえずちゃんと歩いて寮まで帰れそうだった。
現金にも気を良くした私は、先生に「すごい!良くなってる」というと、
「そうだろう、あとこれを2~3日に1回の割合で1週間くらい続ければ完治だ」と言い切った。
実際、そうなった。

あまりの名医ぶりに色々先生と話がはずんだ。
いわく、先生は成都に留学に来る医学生が学ぶここでは一流の「華西大学病院」の医者で、ここの診療所では周3回のバイトをしているそうだ。私と同い年位の息子さんも軍医をしているから、どうだ?今度紹介するぞ、と言われた。先生いわく、優秀な漢方医になるには、5年間の医学校訓練以外にも、あと3年くらいチベット医学をやるといいとのこと。でも、最近の医者ではチベット医学まで勉強している医者は少ないとの事。先生は、当然チベット医学も修めている。

因みに治療マッサージのお値段は、確か1回15元か25元だったはず。
私が当時行きつけの「盲人健康マッサージ」は1時間15元だったから、時間からすると「治療」は割高なんだけど、まあ、日本円に換算したら信じられない安さだ。技術も一流!
診療所で思いがけなく見つけた掘り出し物って感じだった。

中国①尿道感染

中国では何度も色んな病院にかかってる。
まずは成都時代。

留学数年目にして初の中国病院デビューをした。
数週間、左のわき腹が変だった。なんていうか。。。痛いとかそういうのではないんだけど、
「ものすごい違和感を覚える」といった感じ。最初は無視してたんだけど、無視できないほどの
「違和感」が主張を始めたので諦めて病院へ。
四川大学敷地内にある、「望江病院」だったはずだ。一番近いし、通り道にあるから。
もちろん、バリバリ中国人民しか利用しないローカルな病院。
よくシステムもわかんないけど、取り合えず当たって砕けろ。
中国では大体「グアハオ」といって、まあ、「順番待ちの紙」を最初に貰う。これに1元とか(時代、場所、病院のレベルによって値段は様々)払ってもらった(気がする)。
で、自分が診察を受けたい課に行く。とりあえず内科に行った。

診察室のドアは開いたまま、先生の前から廊下まで長蛇の列。私も同じように割り込みをしたりしながら、列につく。これはすごいぜ。プライバシーなんてない。皆、前の人が診察されている内容が聞こえる。

私の番が来る。すると、「不機嫌な顔のおばさん先生」が、手をふっと上に振り上げ、「男性は後ろに下がり、ドアを閉めるように」といった。一応私が若い女性だったので、服をめくって診察するのを気遣ってくれたようだ。日本だったら当たり前なんだけど、これにはちょっとびっくり。

尿道感染か、膀胱炎か、結石の疑いということで、尿検査と超音波検査を指示される。
自分で先生が書いてくれた検査指示を持って、尿検査ラボに行き、用具を貰って尿を取り、コップを持って検査室に持って行き、その前で検査結果を貰うのを待つ。15分くらいですぐに結果が出た。会計もここで済ませる。7元だった。安い!早い!

超音波検査はその時技師がいなかったので翌日排尿しない状態で出直すように言われる。
そうした。これも翌日そのまま病院に入り、検査室に直行。技師を自分で探して検査してもらう。
ごわごわのわら半紙+アルファみたいな紙で検査後のジェルをぬぐってもらい、終了。28元。安い!

二つの検査結果を自分で貰い、持って最初の先生のところへ向かう。
「よかったね、結石じゃないから、多分尿道感染だ。抗生物質と利尿剤(漢方)を出すから薬が終わったらまた尿検査においで。水をたくさん飲むように」。
「因みに、尿道感染の原因は?」
「上からも、下からも感染しうる」
・・・・何となく思い当たる節はいっぱいあった。まあ、いいや。

薬が終わって再検査。
「んん?今度は尿に蛋白が出てる。。。まったくこのおねえさん(小姐)は。。。」とぶつぶつ言った後、利尿作用のある漢方をもう1週間飲むように指示され、終了。飲み終わる頃には、すっかりわき腹の不快感も消えていた。中々優秀かつ安い、中国人民の利用する病院!

なんでこんな事書こうと思ったかというと、最近又この覚えのある「わき腹の不快感」を感じることがあるから。。。。思い出しちゃった。

ラオス・人生初の点滴を受ける

20代から中国を中心とした東~東南~南アジアで生活をしてきた。
その結果か、年齢のわりにあちこち故障が多い私の身体。

まず手始めは、2000年年明けのラオス旅行。
中国の成都~昆明まで鉄道で移動。そこからラオスまで陸路バス移動。
当時、ラオスの唯一の国道ルート13(今はどうだか不明)がまだでこぼこの舗装されていない道だったころのことだ。
この旅行の目的は「楽しく冬に東南アジアでトロピカルフルーツを食べまくるツアー」。
といっても、私と留学仲間のさっちゃん2人のね。

これが私の「初!東南アジア入り」。さっちゃんも前に一度ベトナムを旅行で訪れたことがあるのみ。
だから、知らなかったんだよ。。。パパイヤって食べ過ぎるととんでもないことになるんだってことを。
で、二人でバカバカ食べた。大きな黄色いパパイヤを丸ごと1つ。1日で。

それを数日続けた。上に、帰りの航空券を手配した(さすがに帰りもあの過酷な陸路を利用する体力は残ってないと判断)旅行会社の社長(カンボジア人)が招待してくれた、ビエンチャン空港の空港職員とのパーティーでもてなされ、「俺の酒が飲めないのか」状態で飲み続けた結果、最初にさっちゃんがやられた。夕食のときに下痢が止まらなくなった。というわけで、その日は早めにゲストハウスに戻る。

冬だけど暖かいこの地域では、基本的に水シャワー。冬はそれでも夜は涼しいから、現地の人は大体昼間のうちに水浴びをする。外人の私たちは、いつもどおり夜に水シャワー。それもたたったのか、その日の夜、私のほうにも時間差攻撃でひどい下痢が襲ってきた。一晩で4回下して、更に3回吐いた。震えも止まらなく、要するにひどい脱水症状を起こし、翌朝にはしゃべるのすらめんどくさく、指1本動かすことも出来ないていたらく。

上記のカンボジア人は、妹が日本人と結婚しているらしい。苗字が私と同じ「佐藤」ということで、とっても私に親近感を覚え、必要以上に良くしてくれた。頼んでもいないのに自ら勝手に私らのツアーガイドを費用ごと自分持ちでやってくれていた。(まあ、より正確に状況を描写すると、「若い日本人の女の子二人と一緒に遊べるいい機会を楽しんだ」というところかね)。お金のない留学生だった私たちもそれをラッキーと受け入れた。いちいちトゥクトゥク値段交渉しなくても、日本製の車で迎えに来てくれるのは楽だった。。。

で、翌日迎えに来てくれたカンボジア人が私のその状況を見て、自分のお抱えのおばさん医者をゲストハウスに呼んでくれた。そこで、人生初の点滴を受けることになった。単純なブドウ糖点滴だったと思うんだけど、私にとって、点滴ってそのときは「すごい重病人が受けるもの」だと思ってたから。しかも人生初の点滴をラオスでやるなんて。。。

2010年12月19日日曜日

皆異星人

親、兄弟は自分から見て遺伝子をそれぞれ半分づつ共有してるんだよね?!
だから何となく、自分と同じ面には目が行かず、違う面に気がつく。
「なんで兄弟なのにこんなに違うんだ?!」というやつだ。

みさぶと私にもいつくかの共通項はあるはずだ。
だけど、性格的にあまりにも正反対なのでやはりそっちにばかり気が行く。
当たり前なんだけど、良く考えてみたら、私たちは同じ親、同じような環境で育った。
だけど、大きく違うことがある。私には妹がいて、みさぶには姉がいたということだ。
私には姉はいなかったし、みさぶには妹はいなかったのだ。これはでかい。

「なんでこんなに自主性のない性格なんだ?」と度々みさぶをみて理解に苦しむ私だが、
私みたいな姉がいたら、あんまり自主性を発揮する必要自体がなかったかも~なんて思ったりもする。
逆の立場から考えてみると、私みたいな姉がいたら、大変だね~。。。と言う気もしてきた。
近くにいなければ問題はないけど、一緒に住んでいたらその影響は免れられないだろう。特に幼少期は。

半分は同じ遺伝子をもっている姉妹でこうなんだ。
年齢、文化、育った国、性別、人種、宗教とかが違う他人を理解することは非常にハードルが高い。
特に性別というやつは、でかい。
持っている臓器すら完全に同じではないんだから、これはもう異星人に近い。
考え方が根本から違う、価値観が違うというのは、当然のことだろう。

犬の気持ちだって、分るようで全部わかる訳はないのだ。
今日、猟から帰ってきたスーちゃんに散歩の格好で会いに行ったら、
「ええっ!?今日は勘弁して下せぇっ!」ってびびった顔で眉間にしわ寄せてた。

2010年12月17日金曜日

下僕体質

みさぶって奴は、根っからの下僕体質。
最初は私の下僕から始まり、次はカナダの旦那に移り、今は息子のトラちゃん。
生後3ヶ月にも満たない赤子に見事に振り回されている。

バンクーバーのダウンタウンに買い物に行ったときのこと。

私「ほら、あんた何か買って欲しい物があった言え。お祝いをお金ではやらないけど(あげるとどうでもいいおもちゃとか買って終わるから腹立たしい)必要と私が認めたものは買ってやるぞ」
み「あ、ズボンがこれ、破けたから」(と、膝が裂けたジーンズを指差す)
私「じゃあ、それ買えよ」と、そこでぞろぞろと目の前にあった店に入る。
みさぶはもっとも近くにあった黒のズボンを手に取る。
私「あ、(今はいているズボンを指差して)黒いのなら私が今はいてるのよかったらおいて行くよ」(だから、他の色の買えよといういみ)
み「あ、そう。じゃあそれでいいや。要らない」

恐るべしは3つ子の魂。昔から買い物が大嫌いで、最後には
「お姉ちゃんのお下がりでいい」といっていた奴だけのことはある。
ゆみ3が
「でも、そのサイズ、産後体型が戻らなかったら入らないんじゃない?」の一言でようやくしぶしぶ
いくつか試着に行った。


同じくバンクーバーで取っ手が壊れたという掃除機を買いに行く。
誰が使う掃除機だ?!私とゆみ3が選び出して、本人は蚊帳の外。
これではいかんと自分で選べというと、今度はカズが出てきて結局前と同じようなのを選んだ。
みさぶはやっぱり蚊帳の外。


バンクーバーのお家でも、一番新入りのみさぶは前からいる犬3匹にも下僕扱いされる。
ハナビーは、なんかの拍子にみさぶのズボンのすそを噛んだらしいので、怒ってスリッパでたたいてみたらしいが、何の反省も、恐れられる様子もなし。むかしからみさぶは犬とか動物にうんこつけられたり、馬鹿にされたりしてきた戌年女。
因みにちょっとトラちゃんを鼻先で突いたのをゆみ3に見られて怒鳴られたときのハナビーは、
びくっとして、後ろに飛びのき、その後ゆみ3の後をついて周り、ご機嫌伺いしてた。本当に怖いものは本能でわかるらしい。

トラちゃんは、3ヶ月目にして、寝ているのが好きじゃない、6~12ヶ月用の子供のお洋服を着ているでかい赤子。起きているときはいつも立っていたい!足が「むんむん」とスクワット的動きで立とうとし続ける。
腱鞘炎で痛む手首にサポーターを巻いて、みさぶはトラちゃんの要求どおり、トラちゃんが立っていられるように支え続ける。。。。

2010年12月5日日曜日

カナダで自分を改めて知った

カナダ滞在も残すところ後2日。
はっきり言って、「帰れてほっとするぜー」。

妹の家は動物園並に動物が多い。それも屋内飼い(カナダはたいていそうらしい)。
しかも妹夫婦は私から見るとそろってズボラで要領が悪く、効率的に動いたり、物事を計画的に
進めることが下手。だから一緒にいるといらいらするのだ。
ついにいつものように仕切りだしてしまう。

今日は彼ら二人に買い物に行かせて、母とトラちゃんと犬の世話をしながら、家の掃除をやつらがいないうちにやってしまった。本人達に任せておくと気にならないのかいつまでもしないし、「やれ」と号令をかけないといつまでも動かない。私には耐えられん。。。!

幸いなことにトラちゃんは気のいい、よく寝る扱いやすい子供だし、犬たちも皆おりこうさん。
バンクーバ郊外の家は地下鉄駅まで歩いて2-3分だし、バス停も近い。スーパーも近い。
これで何が今まで不便だったのか、全く理解に苦しむ。

だけど、ここで改めて気がついたこと。
私はやっぱり、母親にはならなくていいみたい。。。
友達の子供で3-4歳になったいい子達を見ていると、「いいねー」と思ったりもしたんだけど、
その前にはこの「訳も無く泣き喚くことがある期間」というものがあるのだ。
子供が自分で歩けるようになるまでは、この重くてうっとうしいベビーカーを持って移動しなきゃいけないし、車に乗るときにもこれを取り付けたりしないといけないし。外出時には飲み物とか、オムツとか色々持ち物が多くて本当に大変だ。

私には無理!!
気がついて、良かった。

2010年12月3日金曜日

カナダ

月曜日からカナダに来ている。
妹の子供を見る為に、母の付き添いで同行だ。

妹の家には、3匹のボーダーコリーと猫1匹、鳥2匹。
ものすごい動物の毛。おまけに数ヶ月前にスカンクにやられた犬のせいで家の中に異臭漂う。。。
ここに泊まるのは辛いので、近くにある妹の夫のおばさんの家に泊めてもらっている。
一人暮らしで動物のいない家は、とっても居心地がいいぜぇ。

初めてのカナダで思ったこと。
●カナダ人はアメリカ人と本当に違う。助け合いの精神がとっても旺盛。人が良くて、治安がいい。
●犬を家族の一員として扱い、ほとんどが家の中で犬を飼う。
●ホームレスはとっても素敵な犬を飼っている。寒い冬に一緒に寝るとあったかいからね。餌は人がくれるらしい。そしてホームレスも自分の食べ物を買うお金が無くても犬にはご飯をあげるらしい。とっても威厳のある毛艶のいい犬が凛として荷車を引きながら町を歩いていた。飼い主はホームレス(らしき人)。時間がいっぱいあるから丁寧に手入れされているのか、本当にきれいで気品のある犬だった。
●英語が聞き取りやすい。そして、移民が多いので私達の英語を聞き取る能力も高い。移民が多いから、自分が「檻の中のパンダ」になった気分がしない。アメリカの田舎にいた時はそんな気分だったけど。
●とにかく中国系を初めとしたアジア系の移民が(もしくは留学生が)本当に多い。インド系も良く見かける。

今のところ、こんな感じ。