2009年4月25日土曜日

タイ事務所でのセミナー

実はタイ事務所の本業?は資産運用セミナー開催でもある。
無料でタイに住む日本人の方向けに「資産を守る方法」・「退職後の生活資金を準備する方法」などの
情報提供を行っている。
                   ↓今日のセミナー風景

                      
             ↓先月、「アユタヤ日本人会」にての風景
もちろん講師は私ではなく、香港事務所の者が来ている。
海外をうまく使ってリスクを分散するなど、グローバル化のサポート業務の一環だ。


2009年4月22日水曜日

Live to Love

ブータン旅行でお世話になったケサン王女。
彼女がブータン代表のコーディネーターとしてネパール入りした、Annual Drukpa Council (ADC)
第一回が4月6日からネパールにて開催された。

以下、HPからの抜粋の簡単な意訳。

ADCの目的の一つは「Live to Love」、今日のこの世を愛すること、優しさ、憐みなどの実際的な側面を教えることを促進することだ。
猊下はクッションに座って瞑想する代わりに、「私たちは愛する為の生を学ぶことも考えるべきだ。同情は養成・発展されるべきでだが、愛は日々の練習から生まれる行動である」と仰った。
Live to Loveの活動は他にも800年のDrukpa家系 の精神的理想主義の促進をサポートすることであり、それを現代生活のリズムに合う形で生きる伝統とすることである。

とある。
HPのブログ欄で彼女のインタビュー動画を見つけた。↓
http://www.drukpacouncil.org/index.php?option=com_content&view=article&id=129:kesang-adc&catid=61:video&Itemid=108&lang=en

2009年4月21日火曜日

「王様の歴史」から②

書籍「王様の歴史」から第4代国王殿下の御言葉一部抜粋。

第4代国王殿下は憲法改正、国王退職制、民主化、譲位などを皆の反対を押し切ってでも
実行された。それに対して、なぜ?そして、なぜ今?という疑問がある。
以下はそのご回答とある。

「なぜ?ブータンは公益のために選ばれたのではなく、出生によって選ばれた一人の人間の手に委ねられるにはあまりにも小さく、その影響・被害を受けやすい。国の運命は実のところ、ブータン国民の手に委ねられなくてはならない。今日ブータンを未来に導く政府と制度を選ぶのは国民なのだ」

「なぜ今か?今は変化に最も適している時期だ。ブータンは社会経済発展の過程のピークにある。この王国はかつて一度も今ほど安全で安定した状態であったことはない。外の世界との関係は今までで最高の状態であるし、インドとの友好・協力関係は新たな高みに達した。変革は良い時に行われるのが一番である」

他にも
「もし政府と国民が手をつなぎ、決意とともに協力すれば我が国民は繁栄を達成し、国は強く安定したものになるだろう。。。私がただひとつ今日皆に伝えたいメッセージは、我が国民よ、もし我らの全てが私たち自身をブータン人として捉え、一丸となり考え行動し、そして三重の宝石の信念を持つことが出来れば、我らが輝かしいブータン王国は強さへの強さへと変化し、繁栄と平和と幸せを達成するだろう」----------1974年6月3日。


「大きな国が持っているような軍事力も経済的強さも我が国にはない。しかし我らには我らを主権国家、独立国として維持する為の豊かな文化遺産と独自の国民的アイデンティティーがあるのだ」。

「王様の歴史」から

ブータンの観光局長、ケサン氏から頂いた本、「The Legacy of a King」。
ティンプー市内でも良く見かけ、買おうと思っていたら思いがけず記念にと下さった。

私の独断と偏見?で気に入った部分を紹介していこうと思う。
内容におかしな所があったりした場合、それは私の勝手な意訳のせいです。

ブータン国歌(歌詞)

糸杉の育つ雷龍王国で
栄光の修道院の避難民と民間伝統
雷龍の王、素晴らしき君主
その存在は永遠で、治世は繁栄する
啓発の教えは華々しく繁栄
平和と幸福の太陽が全ての人に降り注ぎますように

翻訳って難しいですね。。。

2009年4月17日金曜日

チベット仏教的生まれ変わり論

ブータンで過去世を見てもらった時に友人は「天国にいた」と言われた。
なぜ天国にいた人がこの世に戻ってくるのか?というのが私の疑問。
後日、この件を報告するとコーディネーターの女性から回答が来た。
以下は私のスーパー意訳。内容がおかしければ、それは私の翻訳能力のせいです。

「チベット仏教的考え方では、キリスト教のように天国行ったらそこに永遠にいるという事を意味しない。人の出生はカルマによって決定される。善行を行えばその良いカルマの期限が切れるまで天国にいる事が出来る。ブッタや「祝福された存在」になれたら、カルマが来世に影響しなくなる。一度「祝福された存在」になれたなら、俗世への生まれ変わりから解放され、又人々の救済のためにこの世に戻ってくるか、消滅するかを選ぶことが出来る」

「祝福された存在」というのは私の意訳で、原文では「enlightened being」とある。
どういう風に訳せばより分かりやすいのか、悩むところだ。

2009年4月16日木曜日

ぐちょぬれのソンクラン

タイの一大イベント、ソンクランが終わった。
初日は赤い服のグループの大暴れが続いていた。
今までにない「非常事態」だった気がする。

当日家を出てBTSに乗るとき、改札口に鉄格子がかけられていた。
ドア1個分の限られたスペースだけが出入りできるようになっていた。
セントラルワールドショッピングモールも閉鎖。スカイウオークも一部閉鎖。
無知って怖いが、ニュースを見ていなかったのでソンクランのせいだと思っていた。

住田先生からのメールで「市内で発砲事件があり、外出禁止令が出ている」と知った。
タイに来て約半年で3回の非常事態宣言が出ているが、今回のが一番ひどかった。
急いで家に戻ろうとBTSに向かう。
今度は改札付近に数人の軍人が大きな銃を持って配置されていた。

それでもソンクラン。家の近くの通りで白い粘土を混ぜたような水をかけられた。
ホースや水鉄砲で通行人にあたりかまわず水をかける人もいる。
日傘をさしていたのが幸いして、「この人は濡れたくないのね」とわかって通してくれる人も中にはいた。
途中から、まず目で「かけるな」とメッセージを送ってから道を通るようにした。
でも濡れた。。。
ヨガ教室では、先生までが水鉄砲を持って来て、指導しながら水をかけて回ってた。
初めてのタイでのソンクランは、「やっぱり濡れた」。
来年この時期は国外逃亡しよう。

2009年4月13日月曜日

タイの日本食レストランの歴史

ブログを見て頂いたスミタ・カルチャー・センター&プロダクションの住田先生からご指摘を頂いた。
以前、タイの日本食レストランは18年前からあったと書いた。
が、実は45年前からあったそうだ。
住田先生がタイに来たときには既にあり、そこの刺身を食べて赤痢になったそうだ。。。

18年前ってだけでも随分歴史があるんだな~と思っていた。
45年前って。。。まだ戦後間もない時なんじゃないだろうか?

2009年4月10日金曜日

ブータン写真

ブータンでの写真。
ウエブ上にアップしたのでお時間のある方はどうぞ。

風景:
http://picasaweb.google.com/nozomi614/HappyBthutan#

私とブータン:
http://picasaweb.google.com/nozomi614/NozomiInBthutan#

どこにカメラを向けても絵になる風景です。

ブータンに売春は無い?

世界中、どこの国に行っても売春婦は存在するだろう。
売春は世界で一番古い職業だって言ったのは誰だっけ?

でもブータンには無いみたいだ。
少なくとも公には無い。カラオケとかバーとかでも無い。
いわゆる「付き添いお姉さん」もいないみたいだ。
同年代のブータン人に聞いてみたところ、「無い」。

女性主権の国だからなのか?
(ブータンでは家は長女につく。結婚は女性の家に入ることを許された男性が居ついたらそれで成立。追い出されたら離婚成立と聞く)
最近では法律的結婚も首都では増えているようではあるが。

JICAの方にもお伺いしてみたが、「公には無い。ブータン人に聞いた話では、口コミベースでの個人的交渉により成立することもあるらしいが、数百ルピーとかそんなレベル。日本で言う援助交際に近いかも」との事。

津川氏の資料④

以下も津川氏から頂いた資料。



貧しさは不幸なことか
-ブータンの開発から考える-
津川 智明
1. はじめに
 「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」渡辺京二『逝きし世の面影』p127にこの言葉を見つけた。江戸時代末期に日本を訪れた外国人が当時の日本を旅して描写した一文である。当時、惨めで非人間的形態の「貧困」が蔓延していたヨーロッパに比較して日本の「貧乏」は人間らしい満ち足りた生活と両立していると、この外国人は感銘と驚きをもって記した。
 私はこれまで、通算9年以上、ヒマラヤ山中の小国ブータンで暮らした。ブータンの一人当たりGDPは835米ドル(2004年3月現在)、国連開発計画の発表する人間開発指数は142位、農業人口は全体の85パーセント、いわゆる発展途上国であり「貧しい」国の一つである。「貧しさ」を改善しようとブータン政府は多くの援助機関に対し技術協力や資金協力を依頼している。かくいう私が通算9年という年月をブータンで過ごしたのもブータンの「貧しさ」を何とか改善したいとする側の一員としてであった。
 私が始めてブータンに足を踏み入れたのは1983年、国連ボランティアとしてである。当時のブータンは今以上に貧しかった。援助関係の外国人は少なく、その中で日本人は私を含めて3人しかいなかった。一人はコロンボプランの専門家の西岡京治氏であり、もう一人はチベット仏教の研究者の今枝由郎氏であった。当時、インフラは未整備の状況で、電気は主な町にのみ夜間に数時間の時間配電であった。電話は国内でさえも交換手を通して限られた町だけに通話可能であった。主要幹線道路はできていたが舗装道路は限られており、車を見ただけで誰が所有者か判るくらい台数は少なかった。その頃ブータンへの入国手段は、インドからの陸路だけであったが、1983年にパロとカルカッタとの間で、18人乗りのプロペラ飛行機が就航した。
 当時は90%以上の国民が農民であり、残りは公務員で、それ以外の職業についている人は少なかった。人々の生活は自給自足に近かった。農業は機械化されていなかったせいもあり、近所の農民同士の共同作業が主流であった。農民の現金収入は少なく、従ってお金で物を買うということはかなり限られていたため、生活は貧しかったが不幸とは見えなかった。立派な家に住み、十分な食生活ができ、衣類に関しては女性たちが家で家族の着るものは織っていたからである。
 過去数十年間に亘りブータンへの開発援助の主な目的となっている貧困削減の「貧困」に注目し、「貧困とはなにを指しているのか」「貧しさは不幸なこと」と言えるのだろうかという疑問をブータンの開発を通して考えてみたい。

2.ブータンの開発理念
 ブータンの開発理念は、GNH(国民総幸福度:Gross National Happiness)である。これは、第4代国王が1976年に唱えた考え方で、GNP(国民総生産:Gross National Product)に対比したものである。GNHを分かりやすく言えば、「国の開発目標は人々の生活の物質的な豊かさを目指すよりも人々の幸せにより重きを置く」というものである。
GNHについてのブータン政府の説明は次の4本柱に要約される。(1)バランスの取れた開発、(2)環境保護、(3)文化高揚、(4)良い統治、である。(1)については、自然破壊をできるだけ抑えながらゆっくりした開発を目指している。(2)については、自然環境を大切にすること。特に森林伐採については細かな規定を定めて厳しく取り締まっている。(3)についてはブータンの文化を大切に保存すること。例えば、ブータンの国語(ゾンカ語)の普及に力を入れたり、伝統的な礼儀作法を堅持していくための教育を取り入れたり、伝統建築様式を維持しようと努力をしている。(4)については、効率性、透明性を重視した政府の確立と地方行政の充実、さらに地方分権化の促進である。
 国王のいう「物質的な豊かさより、幸せを実感できる社会」は、聞こえはいい。しかし、幸せの定義は人により千差万別であるから、共通の定義はむずかしい。ましては、幸せを測る指標を示せといわれると回答に窮する。ブータンの公的な研究機関であるThe Center for Bhutan StudiesはGNHを測る指標として次の9つを提案している。
① The standard of living
② Health of the population
③ Education
④ Ecosystem vitality and diversity
⑤ Cultural vitality diversity
⑥ Time use and balance
⑦ Good governance
⑧ Community vitality
⑨ Emotional well being
 これらの指標に従って評価し、評価値が高ければいわゆるGNHが高いといえる。これからわかるように、ブータンのGNHに基づく国家社会造りとは、個々人の物質的豊かさを求めるよりも、社会全体としての生活環境改善、言うならば人と人との関係を重視し精神的にも充実した満足感を得られるような社会の実現を目指しているといえる。

3. 貧困とは、なにを指しているのか
 GNHの柱の一つである「バランスのとれた開発」は、周りの国々の開発を見ながらゆっくりとした開発を目指すことを意味している。そこで目指してきたのは、社会的貧困(例えばインフラ、教育、医療の未整備、文化、自然環境の破壊、ゆとりのない生活、地域の人々の助け合いがなされない社会等)の改善であり、決して個々人の経済的な貧しさの改善ではない。
 近代化を開始した1970年代から90年代にかけて、ブータン政府は幹線道路の整備、全国通信網の整備、地方電化の整備を行いインフラ整備に取り組んできた。最近は地方農道の建設を積極的に行っている。教育や医療分野においてもサービスは全国津々浦々に着々と行き渡りつつある。
 30年をかけてゆっくりと、社会のインフラ面および教育、医療等の福祉の分野も改善されてきた。1980年代になると地方分権化政策もはじまった。 “地域の開発はその地域の住民の手で”という政策のもと、2008年からは地域への交付金(block grant)を地方行政体に交付して、住民自身に地域開発の権限と責任を持たせるやり方を取ろうとしている。  私自身、JICAの地方行政支援プロジェクトの専門家として、2004年10月から2006年10月までブータンで活動した。地方分権化促進に伴い地方の開発を地方行政体で実施するようになれば、インフラ整備のスピードは中央政府がリードするよりゆっくりとなるが、将来的には地域住民の手でなされたほうが経済的にもメンテナンスの面からも大きな効果があるといえる。
 冒頭の「貧乏人は存在するが貧困はなるものは存在しない」の「貧乏人」とは個々人の生活レベルにおける貧しさを示しており、「貧困」とは社会的住み難さを言い表しているとすれば、ブータンのGNHの考え方は、貧困の改善を目指していると理解できる。
 ちなみに、ブータンの開発理念であるGNHについては、国際的な注目が集まり、2004年にはブータンで国際会議が初めて開催され、2005年にはカナダで第2回の会議が開催された。

4.貧しさは不幸なことか
個々人の生活が豊かになれば、延いてはそれが社会全体の安定と幸福につながるという、歴史的な経験則がある。その結果、GDPの増加は為政者が国を運営していく上で最重要事項と考えられてきたし、貧困削減を旗印に「先進国」が「発展途上国」に援助を実施している理由の一つのもこのような経験則を受けての事である。
 しかし、長年に亘る援助にもかかわらず、なかなか被援助国の状況に改善が見られないことや、先進国において豊かさを手にした人々が必ずしも「幸せを実感していない」現状をみて、「個人の生活が豊かになれば、社会全体の幸福度は増す」というこれまでの経験則への疑問が湧いてくる。さらにいえば、貧しさはこれまで惨めなことと捉えられてきたが、果たして貧しさは不幸なことなのかという問いを、江戸末期の日本やブータンの生活を見るにつけ再考する必要があると思う。なぜなら、私は20年来ブータン人の生活を見てきたが、裕福ではないが不幸とは決して思えなかったし、ブータン人の逞しい生活の仕方、屈託のない子供たちの笑顔から、豊かさは実感できる。友人家族の家に遊びに行ったときも彼らの生活が幸せそう思えたのである。

5.おわりに
 私が始めてブータンに足を踏み入れてから今日までの20年の間に、ブータンは大きく様変わりした。滞在している日本人数は100名近くに増え、国連関係、JICA関係、民間の仕事、結婚されている方、研究で滞在されている方と様々な立場で暮らしている。首都ティンプーの町は駐車場を探すのが難しいくらい車の数が増えた。頻繁にあった停電や電圧変動は大規模な水力発電所の建設で改善された。また、ここ2~3年で急速に普及し、国際電話も可能であり、インターネットカフェもいくつか出来た。オフィスにはパソコンが置かれ、コンピュータなしでは仕事ができないほど普及している。航空路はタイのバンコクやインドのニューデリーと結ばれている。2004年末には130人乗りのジェット機も導入され観光客が大幅に増えたし、タイからの輸入物資が急激に増えている。
 経済的に発展するに従い、人々の貧富の差は広がっているようである。また、若者の地方から町への移動も顕著になってきている。町へ移動してきた若者の就業機会があればいいが、なかなか仕事にありつけないの状況も見られるようになった。
 政治、経済、社会のどの分野でも国際的な大きな流れに、ブータンも飲み込まれつつある。世界の急速な変化の中にありながら、ブータンはGNHを国の道しるべとして標榜し、仏教を精神的な支えとして、精神面と物質面でのバランスの取れた国造りに取り組んでいる。ブータンの「貧困」は政府と人々の努力で改善され、「貧しさ」はそれを惨めとは感じない。ブータンを訪れる外国人に、「人々の生活は貧しいが決して貧困ではない」といわしめるのがGNHの目指すところであろう。
 ブータンは2008年に初の憲法が発布され、これまで100年続いた君主政治から立憲議会制に移行する。その憲法第9条にGNHについて明記されている。
   以上

津川氏の資料③

津川氏から頂いた資料。
第5代国王殿下の戴冠式でのスピーチもあります。


2008年12月8日
津川 智明

第5代ブータン国王の戴冠式および王制100周年記念式典に参加して

歴史的瞬間を体験するのは大変でした。戴冠式の行われた4日間、全国から新国王に直接お目にかかりお祝いのカダ(白いスカーフ)を手渡したいと希望する国民で首都ティンプーはあふれんばかりでした。あるブータン人はこんなに沢山の人を見たことはないと話していました。私も、何万人のなかの一人として初日、二日と式典会場へ入場を試みましたが入れませんでした。4日目、これまでの苦い経験を活かし会場に6時過ぎに到着。入場は叶いましたが、早朝は寒さを、日が差し始めてからは日差しをじっと我慢しながらスタンドに座り続け、国王へ直接お会いすることを願いました。私は、幸運にも午後3時半にカダをお渡しし、たった一言ですが祝辞を述べることができました。早朝から会場に来ていた大勢の人々は、遠目には拝見することはできましたが、4分の3の人々は不運にもお会いすることなく会場を立ち去ることになりました。
国民一人ひとりに丁寧に接してくださる新国王を見ながら、こうあるべきだとは思いながらも、大勢の人々には時間的、物理的な制約からそのチャンスがもたらされなかったことに対し申し訳なさは残りました。
何がブータン国民をここまで突き動かすのでしょうか。これほど尊敬され慕われる国王の存在というはどのように理解すればいいのでしょうか。一人の人間である国王とはなんなのでしょうか。9時間、寒さと暑い日差しのなかでじっと待ちながら、なぜ自分はここでこうして国王にお会いすることを願っているのか自問していました。お陰で、顔は赤く黒く焼けるし、額から鼻にかけて皮が剥け、唇はかさかさになってしまいました。
帰り道、国王にお会いできたことの幸福感で満たされていました。理解できないなにかが私に働いたようです。

式典ではいろいろなパーフォーマンスが披露されました。その中にネパールダンスとチベットダンスが含まれていました。彼らの嬉々とした笑顔を見て、私は異なる民族と文化の共生の大切さを思いながら、ブータン政府の配慮に拍手を送りました。

式典の数日後、ティンプーとパロの間にある小さな谷間を奥深く歩く機会がありました。かなり辺鄙なその辺りの家々も国旗を飾って戴冠式と王制100周年を祝っていたことに強い感動を覚えました。

以下、11月7日戴冠式での第5代His Majesty the King, Jigme Kehsar Namgyel Wangchuckのスピーチです。

今日、この神聖なる良き日に大勢の国民と一同に集い祝えることは大きな喜びである。これまで過去100年にわたり、私達の先祖が願い夢みたこと、そして先代の国王が求めてきたことがここに実現された。賢明で献身的なこれまでの国王と、何代にも渡り自己を犠牲にしながら懸命に働いてきた国民と、さらに国民と国王の信頼に基づいた強固な絆により、今日のすばらしい国が創られた。ブータンは地球の宝石と表してもいい。

2年前、それはとても大きな変化であったが、私は若輩にもかかわらず王位を継承した。
それ以降、皆は私を信頼しすべてを捧げて協力してくれた。2年間という短い期間で、これからの国創りにとって非常に重要となる基礎を作り上げた。しかも、それは平穏のうちに皆が協力し合いながら計画通りに成し遂げられた。これまでの歴史上先例のない、国家にとり最も重大な民主化への移行が成功裏になされたことを誇りに思う。 

 いろいろなことが大きく変わりつつあるこのときに、あらゆるものに対する新たな挑戦やチャンスがもたらされるが、私たちがどのような仕事をしようと、どのような目標を持とうと、また、いかに変わりつつある世界の中でそれらがなされようと、平和と安全と幸福なくしては何ももたらされないことを忘れてはならない。これがGNHの核心である。我々の最終のゴールは、我々の平和と幸福であり、国の安全と主権の維持である。

我々は今日、先祖からよく統一され活気にあふれた国家をもたらしてもらった。先祖のこれまでなしてきた轍を踏みつつ、国のために献身的に働けば、さらなる平和と幸福と繁栄がもたらされるであろうことを確信する。

私は国民の重要さと国民性を良く知っている。皆は国の宝である。精神文化を大切にする国民だからこそ、皆は良き人間としての資質を尊ぶ。それは正直であり、親切であり、慈悲であり、誠実であり、調和であり、我々の文化と伝統を尊ぶことである。さらに国と神を敬うことである。
これまで長い歴史において、我々の祖先はこれらの価値を大切にし、当然なこととして持ち続けてきた。

世界が変化するなかで、我々の民族と国家の拠りどころであるこれらの大事な価値観が失われていくのではないかということを一番心配している。これまでの過去とこれからの未来永劫においてブータン人として国民性を保ち続けることは重要なことである。現在は初代国王のときと比べると非常に変化している。しかし、国民の性格や基本的価値観は変わっていない。今後、世界やわが国がもっと大きな変化を遂げようと、我々が良き国民であり続けるという唯一で永遠の目標をかかげ、また良き国家を創る努力を続けるなら、これから100年にわたり次世代の国民は幸せで平和を享受できると確信する。

皆にこれらを願うのは私が国王だからではない。ここにいるのは私の運命である。この若さで、すばらしい国民と国家に奉仕できることは非常な喜びである。私の在位期間、私は国王として君臨はしようとは思わない。私は親のように皆を守り、兄弟のように皆を世話し、子供のように皆に使えよう。私は皆のためにすべてを捧げよう。私は子供たちの手本となるような人間として生きていく。私の目標は国民の希望と願いを叶えることである。私は親切心、正義心、そして平等心をもって昼夜を問わず国民のために働くつもりである。

私の仕事は、仏教を信仰する国の国王として、国民の幸福を保証するだけでなく、精神的な所作から得られる果実と、良き業(Karma)を得るために必要となる肥沃な土地を造り出すことである。

これが国王としての私の任務である。

私は特に重要な役割を担う若者について最後に語りたい。わが国の将来は、今日の子供たちの真の価値、才能そしてやる気にかかっている。ゆえに、私は若者に感動と知識と技術をあたえるために全力を注ぐつもりである。これらは若者自身の願いを叶えるだけでなく国にとっても大きな財産となる。これは私にとって重要な仕事である。将来の確固たる目標を持っているブータンだからこそ輝かしい未来が約束される。

未来は見ることもできず未知の世界である。それは我々が創造していくものである。
今日、我々のこの手で何をなすかによって将来の国の姿が形作られる。子供たちの明日は今日の我々によって創られる。
私は平和と幸福の光が永遠に我々に降り注ぐようブータンのために祈る。私はヒマラヤの小国の国王ではあるが、私の在位期間をとおして、世界中の人々はもとより、すべての生きとし生ける物に大きな幸福がもたらされるように祈ろう。

Tashi Delek

津川氏の資料②

引き続き、津川氏から頂いた資料。
「ブータンの地方行政について」


「ブータンの地方行政について」
津川 智明
元「ブータン地方行政支援プロジェクト」専門家
2006年12月

1 はじめに
 ブータンは2008年を期して大きく変わろうとしていることを皆さんはご存知でしょうか。まず、新憲法が発布されます。それを受けて、これまでの君主制議会政治から政党制議会政治に変わります。第4代現国王が退位され皇太子に王位を譲ります。第10次5カ年計画がこの年から始まり、大きな変化としては、201ある地区(Geog)に対し開発資金が交付され、地方主導の地域開発が始まります。また、建国100周年の年に当たります。
 上記変革に当たっていくつかの特徴が挙げられます。まず、君主制から政党制への移行を多くの国民が不安を持って受け止めており、新憲法草案説明のため国王と皇太子が全国を巡行された折には、国王主導の政治を末永く望む声が絶えなかったことです。政党政治への移行はいわば民主国家となるわけですが、主権を得る国民がそれに反対して国王が主権を取り続けるのを望むというのは他の国では考えられないことではないでしょうか。次に、現国王の退位をほとんどの国民が惜しんでいることです。現国王は今年で51歳になられます。1974年、18歳で戴冠され、まさに名君主として実力も人望も絶頂期にある時期に退位される潔さが国の内外から注目を集めています。「国が最も安定し国民が幸せを享受しているこのときに王位を譲るのがいいのだ」と国王は国民に説明されました。国民の間からは政党政治の行く末を案じる声が絶えません。80年代からの学校教育を受けた人々はいろいろな見識を身につけていますが、それにしても地方のブータン人は民主化すら想像できないのです。果たして、あと2年足らずで総選挙を実施して国をリードしていく議員を選ぶことができるのか、私も心配です。

2 変わりゆく地方行政
 これまで中央政府におんぶに抱っこだった地方行政と地域開発が地域主導に変わっていきます。まず、2002年に地方分権の規定(Chathrim)が改定され、地区長(Gup)と副地区長(Mangmi)が地区住民による選挙で選ばれるようになりました。それも一人1票の自由投票です。2005年11月に2回目の地区長選挙が実施され、約6割の地区長が新たに選任されました。2002年から地区開発議会(GYT)と県開発議会(DYT)の機能が強化され、それに伴って、それまで県(Dzongkhag)では絶大な権力を持っていた県知事(Dzongdha)の役割が制限されるようになりました。いわば立法と行政が分離されるようになったといえます。逆に選挙で選ばれるようになった地区長の権限が強化され、地域の開発に大きな影響を及ぼすようになりました。地区長は権限の強化と同時に責任も重くなりました。2008年から始まる第10次5カ年計画からは開発資金(block grant)が中央政府から地区の公金口座に直接交付される予定です。そうなれば、名実ともに“地域の開発は地域の人々の手で”行われるようになります。
 中央政府としては、地域の開発を地域主導で行うようにすることで、地域住民が直接自分たちの地域開発に責任と主体性を持つようになり、かゆいところに手の届く開発が実施されるようになることを期待しています。また、住民による開発への直接参加を促進することで開発予算を軽減できると考えています。地方分権化促進のために、中央政府は2002年から着々と手を打ってきており、例えば地区担当の経理職員を増員したり、地区行政官を新しく雇用して配置することも決定されています。また、これまでボランティアで活動していた地区開発議会のメンバー(Tshogpa)には多少の手当てが支給されることになりそうです。

3 JICAの協力
 中央政府から地方行政体(県および地区)へ権限と責任が移譲されることはブータンの国づくりにとって好ましいことなのでしょう。しかし、権限と責任を移譲するためには県や地区の職員が責任を持って業務を遂行できる能力を備えている必要があります。そこで、ブータン政府はJICAに対し地方行政に係わる人材の能力が向上され、地方分権化の制度造りを目標としたプロジェクトを依頼しました。
  プロジェクトは4つの柱から構成されています。1つは地区業務の核となる地区センターの建設です。地区長や副地区長はこのセンターで日常の仕事をし、地区住民への行政サービスを実施します。2つ目は中央、県、地区において地方行政に係わる業務をスムーズに行うために必要な機材を供与しました。3つ目は中央、県、地区の職員を対象とした研修を実施しました。4つ目は対象地区(ハ、ブンタン、タシガンの3県にある25地区)においてパイロットプロジェクトを実施しながら関係者の能力を向上することです。
 4つの柱のなかでもっとも資金と時間と労力を要したのはパイロットプロジェクトの実施でした。2008年、第10次5ヵ年計画から予定されている開発資金に当たる予算を本プロジェクトで付与し、パイロットプロジェクトについて住民が話し合い決定し、実施するという過程を経ながら地方行政体関係者の能力向上を目指すものです。県や地区では、このようなプロジェクトの実施は初めてのことであったため、話し合いがスムーズに行なわれなかった地区もあり、当然さまざまな問題も起こりました。これらを解決しながら制度造りに貢献していくことも、このプロジェクトの目的でありましたので、能力向上や制度造りには役立ったと思います。

4 目指すべき地方行政
 現国王は1974年の戴冠式の挨拶で、最も重要な課題は「経済的な自立」であるとした上で「As far as you, my people, are concerned, you should not adopt the attitude that what- ever is required to be done for your welfare will be done entirely by the Government. On the contrary a little effort on your part will be much more effective than a great deal of the effort on the part of the Government.」と述べられました。地方行政の目指すべき姿はこのお言葉に表されていると思います。「自分たちの生活改善は中央政府の賄いに頼ることなく、個々人の力はたとえ小さくとも自ら努力して自らの手で行うほうが中央政府の施しよりも大きな効力が発揮されるのだ」と。あれから30余年にわたり国王は着々と地方行政の体制造りに取り掛かられ、第10次5カ年計画からいよいよ地域住民自らの手による開発が始まろうとしています。

5 おわりに
 ブータンの地方行政をみるにつけ、制度は中央政府によってこれまで一歩一歩準備され、着実に進められてきていると実感します。その源は戴冠式の国王のお言葉に見られます。まだまだ地方行政体の人材も制度も磐石ではありませんが、地域の開発はこれから地域住民自らによる話し合いと発意により行われ、中央政府と県は開発プロジェクト実施に必要な技術やモニタリングを側面から支援していくことになるでしょう。
 経済的な豊かさを元にした幸福の追求ではなく、人と人の繋がりや人と自然の係わりを大切にした幸福の追求を国家目標とするブータン国において、地方行政/地方分権化の成功はいま最も重要な課題であります。

以上

GNHコミッション所属の津川氏から頂いた資料

ブータン訪問中にお話を伺った津川氏から頂いたGNH概念に関する資料を了解を得た上、ここで掲載させて頂く。津川様、どうもありがとうございます。
以下は「ジグミ・Y・ティンレイ大臣のGNH演説の翻訳」資料だ。



平成16年3月4日
津川 智明

国民総幸福度、価値と開発
(UNDPアジア・パシフィック地域ミレニアム会議の基調演説:1998年10月30日から11月1日、UNDPと韓国政府主催)
ブータン政府代表 ジグミ・Y・ティンレイ大臣

国民総幸福度、価値と開発

1 UN事務次官補、Mr. Nay Htun、この「朝の静寂の地」においてUNDPミレニアム会議に招待いただき光栄です。また、韓国政府に対し我々代表団へ暖かい歓迎を頂き感謝申し上げます。ブータン政府および国民はこの機会に国民総幸福度というブータンの開発哲学を紹介できることを意義深いものと思います。

2 私はこの特別な集まりにブータン国王、ジグミ・シンゲ・ワングチュックからの挨拶と敬意を表する役を担ってきました。国王はこれまで30年近くにわたり国家開発の哲学と概念そして方針をうちたててきました。国王は常々「政府の最終目標は人々の幸福の助長である」と確信をもって言いつづけてきました。
国王はGNH(Gross National Happiness:国民総幸福)をGNP(Gross National Product:国民総生産)より重要であり、国家開発において幸福は経済発展より上位に位置付けられるとしています。

国際開発政策における幸福度

3 幸福とは全ての人類の究極の願望です。全てはこの目的の為になされます。個人のあるいは集合的な努力はこの普遍のゴールのために払われるべきであります。私はブータンがこの目標をどうして国家の開発目標にしたかお話しすることを光栄に思います。しかし、私はこの問題について特別な見識を持つ社会科学者でもなければ優れた僧侶でもないので、私の話の中ですべての質問に旨く答えることはできません。この分野で私の短所はこの問題をユートピアとしてとらえるには専門外であることです。
  この最も重要な人間の価値を理解する為に測る分析道具はありません。私たちは矛盾した立場にあります。開発の重要なゴールは幸福の追求ですが、幸福は開発計画のなかにはどこにも述べられていません。しかしながら、計測する道具がないからといって、最も大切なこの幸福を開発計画政策の中に考慮されないという理由にはなりません。

4 人類社会の真の幸せを計る為に、幸福度は重要な要素をなすという考えは自然なことでしょう。
  収入の不平等を残念に思うと同様に、社会グループや国家間においても幸福度には違いがあることを理解すべきです。しかし、幸福はほとんどの国家あるいは国際開発機関の政策に入っていません。これらの国家や機関は社会・経済指標の動向には非常に敏感であり、これらの指標と幸福との関係は明確には述べられていません。せいぜい、幸福度が上がるのは社会・経済状況が改善される結果であると見ています。

5 通常の社会・経済指標は計測手法の一つですが、結果については計測していません。
これに関し故Mr. Mahbulul-Haq氏に敬意を表したい。彼はUNDPを代表して「人間
の開発指数」(The Human Development Index)を開発しました。この指数は人々の幸
せに係わる開発の計量可能な指数です。開発政策は、この新しい特質に影響されてきました。ブータンの5カ年計画でも人材開発に特に力を入れています。つまり計画予算の1/4を教育と医療に当てています。将来において、HDIに幸福度の要素を盛り込んで欲しいものです。

6 幸福度は政策指標であるべきです。これは新しい方向付けであり新たな研究課題になります。21世紀の国際化は幸福度にどのように影響を与えるか知りたいものです。情報・通信技術は人々にどのような影響を及ぼすのでしょうか。生物学的、文化的多様性の減少は個々のあるいは集団の幸せの可能性に対してどのような影響を及ぼすのでしょうか。現代教育と履修内容で教える特殊な科学の世界観は次世紀において文化的に豊かな日常生活を減少させるのでしょうか。宗教離れと核家族化は人々の孤独を増し、都市での生活の中で孤立感を助長するのではないでしょうか。社会と経済の急速な自動化は個人の幸福を助長するのでしょうか、減少するのでしょうか。世界に広がる資本主義と世界貿易の自由競争は人々の生活をもっと不幸に、不安定にするのではないでしょうか。遺伝子工学や生命操作は幸せを助長するのでしょうか。どのような政治、国家、地域、世界が幸せを助長するのに適しているのでしょうか。いろいろ述べましたが、もっとも聞きたいのは上記の事項は幸せを助長するのでしょうか、ということです。

ブータンでの開発ゴールとしての国民総幸福度

7 ブータンの経験を述させてください。開発の哲学を簡単に述べ、これとGNHとの関係を述べたいと思います。国民総幸福度を説明するために概念の正当性とその実施結果を述べるにおいて、ブータンの開発哲学はヒマラヤ山脈よりも高い妥当性があり、次世紀の開発のゴールと開発哲学を実施する機会は幸福度という概念で染められるでしょう。

8 GNHはブータンの哲学および政治の概念であり、開発の重要な目的であることは明確に理解されています。これは他の途上国の経験から学んだことです。物質追求の執念は精神的荒廃をまねき、物質追求の執念が今日の人類文明の核になっていると思います。我々が直面する最初のチャレンジは快適で安全な生活を築くため、いかに精神性を保護し発展させるかということです。我々はいかに物質主義と精神主義の釣り合いを取るか苦労しています。

9 普通のブータン人はこの精神主義と物質主義のバランスをどのように取ろうとしているか、いろいろなことが経験から知られています。これは私が数年前、東ブータンの地方行政役所で働いていたときの話です。ある卓越した農夫が収穫量の多い米の品種で二期作を始めました。その年、この農夫は収穫量を2倍に増やしました。他の農夫の励みになる成功物語です。ところが驚いたことに、この農夫は次の年には何にも生産しようとしなかったのです。この農夫は欲張った生き方でなく、楽しくゆったりといきる生き方を選んだのでした。

10 悲しいかな、魂の廃頽は世界の物質主義における貧困を招く競争やねたみを助長する必要悪かも知れません。基本的要求を満足させることと貧困からの脱却は緊急の目標です。

11 経済的豊かさの追求という計測可能な量的指標の目標に加えて、ブータンの開発方針は計測できない3つの目標を掲げています。1つは環境保全、2つは文化促進、3つ目は良い政治です。これら4つの目標は相反するもののようですが、根本のところではお互いに関連しています。文化と環境の目標を追求することは経済発展を遅らすことになり、プロジェクトコストも上がってしまいます。しかし、長期的にみると文化促進と環境保全は疑いなく重要であり、さらに盲目的な経済開発に歯止めをかけることになります。文化的に、あるいは環境を重視している豊かなブータンの社会は、もし経済至上主義が社会に根付くようなことになっていれば、それを受け入れなかったでしょう。富の生産にのみ固執すれば幸福度が減少することは間違いありません。

幸福と悟り

12 ブータンの文化において、内的精神主義の発展は外的物質主義の発展と同様に重要なことです。「発展」という言葉は「悟り」のなかに含まれます。悟りは宗教に限っているものではありません。悟りは幸福の行き着くところと捉えています。たぶん、悟りは精神性と社会・経済環境との調和から生み出されるものではないでしょうか。

13 アジアの多くの社会は精神性の発展というのを能動的な力に託す方向で意識してきました。この能動的な力は自然に対して制圧するという外に向かったものではありません。そうでなく、内側に作用し、「本来の心」を理解し外的世界との関係をよりよく理解することができるのです。自己認識は個人の自由を得るためと、幸福を獲得する為に重要です。現代社会はあまりにも自己のこと、欲望、欲求にとらわれすぎているように思います。幸福というのはこれらのしがらみから開放されることです。

14 ブータンの伝統教育と仏教教育は人生の哲学に合致しています。国家と社会、法律と倫理のイデオロギーはこの哲学からきています。今日、仏教的世界感と科学的学問の両方を調合するための研究のため新たな努力が払われています。反論もありますが、根本的には両者の両立は可能であると信ずるものです。人々の精神的な幸福にとって、これらの人生の哲学という価値が社会に浸透することは重要です。我々の開発方針に仏教は含まれています。日常生活の中だけでなく教育、医療、環境問題の中にも仏教は影響しています。

環境の倫理と幸福

15 個人の関心事と興味を減少させるよう強調することは、現代社会からの逃避であり、開発と建設的発展を拒否していることになるでしょう。我々の考えは、個人の関心事の減少は、人間関係のより幸せな関係構築のため、大切なステップであり、人間と自然と社会環境において侵略と破壊を減少させることになります。人間は豊かな感受性を持っており、この世に存在するあらゆる生きものの中で人間がその鎖の頂点にいるという考えは、それぞれが関連し合っているという不思議な関係を考慮すると間違っています。それは科学的研究からも実証されています。現実社会は階層的なものでなく、全体として繋がった閉じた関係です。従って、持続可能な開発というのは、全ての生き物の関心事であり、次世代の関心事ではなく現代の問題であるといえます。いま述べたことから実証される環境保全の倫理は、ブータン環境政策に影響しています。持続可能な開発のための我々の政策は、実際、現在の地球的エコシステムの悪化にたいする認識より上位にあります。

16 例を上げます。ブータンの南部マナス地域にある、もっとも大切な国立公園は1962年に認定されました。第一次5カ年計画が始まったわずか1年後のことです。ブータンの国土の26%が森林保護地域となっており、そのため驚くべき生物多様性が保全されています。国土の72%は森林に覆われており、そのほとんどが原始林です。森林は国のもっとも重要な天然資源であり、我々の開発哲学の重要な方針の1つは、これらの森林を商業ベースのために開発しないということです。私たちは森林という天然資源を保持することで、ブータンは引き続き世界の空気を洗浄することに寄与していることを嬉しく思います。

17 世界のエコシステムに脅威を与えているのは次の2つのことに起因しています。(a)人口増加 (b)一人あたりの消費量の増加。ブータンは、人口は少ないのですが、家族計画や女性に対する教育を実施することで人口増加の速度を遅らせており、ブータンの特徴である人間と自然との調和は持続可能であるといえます。市場経済は生産と分配において有効であり、経済の拡大とエコシステムと関連づけることは、それは視野が狭い考えといえでしょう。我々は倫理とイデオロギーと信仰と持続可能なライフスタイルに合致する制度が重要であると認識しています。これが、ブータンにおいて、我々が開発を文化的モデルとして捉えることにした背景です。

収入と幸福

18 収入の増加は必ずしも幸福の増加に比例しません。したがって幸福度の計測をした場合、経済活動が活発な国が必ずしも幸福度の高い国とはランクされないことを意味します。幸福や調和をもたらすお金の価値は、そのお金の量が増加するにつれて価値は減少します。もっと掘り下げて言えば、人々がお金を分配する方法は、いつも社会的な立場を考慮して最適であるとは限りません。私は個人的な合理的選択によって生ずる莫大な損失と無駄を無視することはできません。この矛盾は例えば、個人の車を購入することで交通渋滞の原因になったり、国家的軍事費の増加が世界的治安の不安定の原因を作っていることになりかねません。この結果は、幸福と平和について将来にわたってマイナスの影響を生み出すことになるでしょう。

政府と幸福の社会構造

19 我々の国家の創設者(国王)は国民の悟りと幸福を向上させるためにユニークな政府のシステム造りに専念してきました。ブータン政府は、政治と社会構成の発展において弾力性の強い「力」と、昔の社会と、そして西欧の民主主義の長所を取り入れながら国づくりを進めてきました。1961年にブータンの近代化が始まる以前は、ブータン社会は物質的な、そして精神的持続性を維持する為に計画と制度をもっていました。開発の初期段階ではトップダウンの政策で実施されていましたが、トップダウン方式のいくつかは徐々になくなりつつあります。行政と政治の強力な地方分権化は、1981年に国王によって推進されたものですが、開発に関する決定権を草の根レベルに移すことになりました。このことは村と地域の繋がりを強化し、政府の責任と透明性を向上させました。

20 権力の段階的推移という重大な変化は1998年6月に実施されました。それは、ブータンの国会において、選ばれた大臣に全面的事実上の権力を国王から移行したときです。国王は政府の首長であるという立場を放棄し、このことは国会の執拗な反対にもかかわらず、さらに国王としての立場を選挙で放棄させることができるという想像を絶する制度を含んでいます。

21 我々は、国民総幸福度が依存している社会的結束と統一の強化を維持しようと決意しています。個人的な関心事を過度に追求することは、家族の絆という点に関して我々の社会構造を壊し、それは多分最も危機的な要素になるかも知れません。我々は子供や年配者を含めた全ての家族のメンバーが精神的そして肉体的な安定を見出し、そのような社会を維持することを切望するものです。幸せな環境で子供達は育つべきであるように、年配者も社会の片隅に追いやられるのではなく尊敬されるような社会を望みたいものです。結局、社会関係の広がりと質は子供から年寄りまでを含めた全ての個人的ライフサイクルにおいて、幸せの根幹であるといえます。

22 ブータンの開発哲学に対する国際的な意見はいつも支持されており、今後も引き続き実践を持って受け入れられることを期待したいと思います。しかし、全ての革新的二者選択の開発手段は保守的な伝統に従う考え方というプレッシャーを受けながら挑戦であります。我々は国際化の現実を受け入れながら、いつも選択の余地のある、実質の伴った努力をしています。正しい選択をすることは現在および将来において我々の大事な仕事です。全ての国家が大胆に創造的に開発に対して立ち向かっていることは、生誕3千年を迎えるに年に当たり、人間の幸福を向上させるチャレンジであります。

23 21世紀は次のような世紀になることを期待しています。それは全てのエネルギーと資源が高いレベルの開発の努力のために使われ、その開発の努力は不満足な個人にたいして怒りを静める為だけではなく、全ての人類にとって真の幸福と平和をもたらすために費やされるべきであると考えます。

24 本日は講演する機会を与えていただき感謝の意を表します。

ブータンこぼれ話

ブータンで何気なく疑問に思ったことと取り留めもない話。

なぜブータンはアジアのその他の国のように人口が増えないのか?
ガイドさんと同年代の会社経営者の話だと、90年代に国家政策スローガンらしきものがあったらしい。
曰く、「量より質。多く産んだら全員にいい教育を受けさせられない。少人数ならそれが可能」
というような内容の事がお米の袋とか至る所に印刷されていたらしい。

チェチュのフェスティバル会場にもこんなブースがあった。


ブータンは国土も小さく、(九州とほぼ同じ面積)人口も少ないので(約65万人)政府の政策も広まりやすい背景がある。アジアの周辺諸国とは明らかに国民の考え方も違う。政策あれば対策あり、というのはない。政策自体が対策を必要としない位、国民の為に考えられたものだという事もあるかもしれないが。教育も医療もただなので、国民に対する平等性が高い。皆が皆を大切にし合っている。

GNHの概念とは、「何かを決める時、それが皆を幸せにするか?それは長期的に見て国民全員に対しての利益と幸せにつながるか?」を最重要課題として考えることだと思う。

ブータンの人々も自分の言動全てにおいて、この「これをする(言う)事が相手と自分の幸せになるか?」を考えている気がする。だから、悪意が感じられないんだろう。

国際医療協力ボランティア団体ジャパンハート

国際医療協力ボランティア団体「ジャパンハート」代表の吉岡秀人先生のセミナーに行ってきた。
ブータンから戻った翌日の歓迎夕食会にも混ぜてもらい、個人的にお話を伺う事も出来た。

ジャパンハートの活動詳細は
http://www.japanheart.org/index.html
吉岡先生のブログもHPから入れるが、直接は以下を参照。
http://japanheart.exblog.jp/

セミナー内容要約は以下。

1)なぜミャンマーなのか?
→1995年、戦後50年目に吉岡先生は初ミャンマー入り。戦前は「食べられること=豊かさ」だった。ミャンマーは以前、アジア一豊かな国だった。だが何度か訪問を繰り返すうちに、多くのミャンマー人が医療を受けられていない事を実感する。
→インパール戦に参加した人たち(九州出身者が多かったらしい)から、資金を出すのでミャンマーで医療活動をしてほしいという要請が来た。
→一緒に現地を訪問し、ミャンマーの地で亡くなった夫に向い手を合わせて祈るおばあちゃんの姿を見て、何だか亡くなった方も浮かばれたような気にさせられた。そのまま、なぜここで?と思いながら医療活動を続けた。そのうちだんだん理由がわかってきた。
→活動中、戦争体験者の老人たちが先生を訪ねてきた。当時イギリスの植民地だったミャンマー人が傷ついた日本兵を匿ってくれていた事実を知る。
→そのように助けられ、生き延びた日本人が帰国後日本を復興させた。その歴史の延長上に自分はいるのだということに気がついた。
→親族をミャンマーで亡くした日本人にとっては、家族が溶けてなくなったミャンマーの土地、そこの人たちは家族と同じ意味をもつ存在だという事に気がついた。

2)ミャンマーでの活動は、現代医療の技術をもって日本の過去にタイムトリップしているような気持ち。
→戦時中、医療を受けられずに亡くなっていった日本人の痛恨を今のミャンマー人から同じように感じる。
→95年当時、ミャンマーに行った時は多くの人にものすごい反対を受けた。今は
 保健=少ないお金で多くの人を助ける
 医療=大金で少数しか助けられない
 のうち、保健活動が主流になっている。だか吉岡先生がやろうとした事は、「医療」だった。
→本当に正しいかどうかは、10年、20年単位で物事を見ないと分からない。今思うのは、これだけ多くの人が集まってくれているという事実が、やってきたことが正しかったという証明だと思う。


質疑応答で、私たちがジャパンハートの活動を支援したい場合はどうすれば良いのか?との質問。
吉岡先生は、「一度に大金を寄付するのではなく、会員になっていただき細く長い支援を続けていただく事が長期的にみた場合、一番役に立つ」との事。
HPから会員申し込み手続きなどのやり方も探せるので、興味のある方はどうぞ。

最後に吉岡先生に「ブータンにも活動の場を広げる予定はありますか?」と打診。
「ブータンは入れるんですか?入れるのならどこでも行きますよ」とのこと。

2009年4月8日水曜日

ブータン旅行7日目

7日目

ティンプーでせっかく買ったキラを着てパロゾンで写真を撮るのが今日の目的。
朝からキラを着るのに大騒ぎした。結局一人で着れなくてホテルのお姉さんに着せてもらう。腰ひもをきつく締めあげないとずり落ちるのでかなり苦しい。ブータン人はいつもこんな苦しい恰好でいるのかと思う。着物よりましだが。
ブータン人と日本人は本当によく似てると思う。キラを着たら完全にブータン人に間違われて日本人観光客にカメラを向けられた。日本語で「私は日本人ですよ」というと困った顔をしていた。


それから市内のお寺や橋を見学。











午後は絶壁の途中にあるお寺に又崖登りをして到着。
90度に近い絶壁なので上から見下ろすとかなり怖い。周りに誰もいない静寂の中でパロを見下ろすとかなり気分がいい。絶壁と組み合わさって立っているお寺も雰囲気が良くて、次回は1日中ここで瞑想したいと思った。

夕方は本日のメインイベント。ブータン焼き石風呂だ。
せっかくなのでホテルではなく、農家の焼き石風呂を頼んだ。パロ市内から山道を上がり、舗装されてないオフロードをごとごと15分も登る。伝統的ブータンの農家だそうだ。馬もいた。
ただ石を焼いてお湯を温めただけのお風呂かと思っていたら違った。
石に硫黄が含まれているみたいで(多分その他のミネラルも)お湯は硫黄のにおいがしている。ガイドさんに聞いてみる。薬草風呂ではないけど、石からミネラルが出てくるから体にいいよとの事。ある意味人工温泉だ。水に入れた石がなかなか冷めないのでお湯がだんだん熱くなってくる。隣の湯船から水をくみ出し追加しながらブータン石焼風呂を楽しむ。数分でゆだってくるので出たり入ったりを繰り返す。農家の女の子に水を持ってきてもらって水分を補給しながら1時間弱くつろいだ。(写真)
風呂を出てからアラというブータン独特のお酒(農家手作り。焼酎みたいな感じ)を味見する。残念ながら飲めないので本当に味を見ただけ。焼酎!って感じだった。
ホテルに戻り最後のブータン料理を楽しみ、シャワーを浴びようと服を脱ぐと肌から硫黄のにおいがした。やっぱりミネラルがお湯に溶けだして硫黄温泉になってたんだと納得。毎日入ったら本当に体に良さそうだ。

ブータン旅行6日目

6日目

朝早くティンプーを出発し、パロへ向かう。
このお祭りを見るために出張自体を4月まで待ったのだ。
チェチュと呼ばれるお祭りで、ガイドブックにはチェチュとは
「ブータン人にとって、仏教を広めた僧の存在は釈迦と同じくらい重要だ。特にヒマラヤ地方に仏教を伝えたパドマサンババは至宝の師として今も敬慕されている。彼の布教活動を再現し、その威光を悪霊に再確認させるために営まれる法要」だとある。
会場はブータン最大級の規模を持つパロ・ゾン(城塞)だ。
ゾン自体が芸術品のように美しい。
お寺などに行っても思うのだか、一番美しい壁画や仏像などは内部にあるので写真撮影が禁止されている。本当に圧倒される美しさなので写真紹介出来ないのが残念だ。
最初にマスクを着けた3人によるダンス。それから眠くなるような、思考がどこかに連れて行かれるような伝統音楽とともに衣装を身につけた男性が踊る。同じ動きを繰り返す。鮮やかな色彩のスカートがくるくる回り、人も回る。
音楽と合わさり催眠効果でボーっとしてくる。





即興のパントマイムで観客を沸かせる「アツァラ」に記念撮影を頼む。
なぜか横ではなく私の後ろに回った?と思ったらいきなり抱きあげられた。。。

ブータンに来てから激しく後悔したことは、もっとチベット仏教について勉強してくれば良かったということ。それが理解出来てないと色んな事がちゃんと理解出来ない。この踊りも色んな意味があるのだか、仏教の話がわからないと付いていけない。
これからチベット仏教についても勉強しなければと強く感じた。


午後からはパロの超高級ホテル見学。これらのホテルに泊まる場合は公定料金の1日200ドル+で支払わなければいけない。
1泊1200ドルというアマン・コラとローシーズンなら145ドルから泊まれるZhiwaling hotel見学。個人的にはブータン建築風のZhiwalingの方が気に入った。
内装もお寺の中のように芸術的で、仏壇部屋や瞑想ルームもある。100人まで収容出来る会議室もある。会社や政府機関の会議にも使われているそうだ。

それから一人で野放しにしてもらい、(ブータン旅行は基本的にずっとガイドが同行なので便利な反面、単独行動がたまらなくしたくなる時がある)パロの中心地を散策。
1時間ほど当てもなく一人でうろついたら随分すっきりした。
一人旅が基本な私にとって、最高のブータンで一番の難点は一人でいられる時間が極端に少ないことだった。私も疲れたけど、ガイドさんも大変だったろうと思う。

ブータン旅行5日目

5日目

昨日に引き続き、過去世を確かめる旅へ。
今日が本番の「特殊能力で人の過去世がみえるラマ」だ。ティンプー郊外の山壁の途中にへばり付くように立つ建物(写真)にラマはいる。途中からは徒歩で登らなくてはいけない。

とにかくたどり着き、ラマにお会いする事が出来た。
過去世の記憶だとしか思えない夢の事、首絞め・ナイフ刺しで殺された過去があると私は信じているが、それは本当なのか確かめたい。又それが今世に影響しているのかも知りたいと伝える。ラマは私の方をみてから興奮して話しだした。
首絞めは無いが(見えないが)ナイフで刺されて殺された過去はある。以前身寄りのないお坊さんだった私は確かにナイフで刺し殺されて人生を終えているらしい。でも今世は殺されないから大丈夫との事。次は男性になると言われた。他にも実はかなり色々言われたのだか、個人的な話になりすぎるのでここまで。
昨日の計算による占星術よりは自分自身で強く事実だろうと感じていた事と重なる部分が多かった。
過去世を知って何の役にたつのかとガイドさんに聞かれた。少なくともあの夢とか、直観がただの妄想じゃないってことが確認出来た。それで何かが吹っ切れた気がした。

午後はブータン・アグロ・インダストリー訪問。
93年設立の食品加工工場。ミネラルウオーターのボトリングの他、季節の収穫物を加工を行う。意外だったのは、ここで加工する原材料の70%近くはインドからの輸入だということ。農業国ブータンの農作物は高すぎるらしい。ミネラルウオーターのボトルの原料もインドからだ。改めてブータンとインドの密接な繋がりを感じる。

そのあと、ローカルマーケット見学。
せっかくブータンに来たのでブータンチーズとバターを買う。
バターは最低500グラムからしか売ってくれない。一人だと半年以上たってもなくならないかも。。。

夕食後、JICAの方に1泊1000ドルするというホテルにお茶に連れて行って頂いた。
全部で16室しかないらしく、隠れ家的なホテルだ。伝統的ブータンスタイルの建物に5つ星級の内装設備。ブータン自体がかなり「別世界」だが、ここは更に「別世界」だった。

ブータン旅行4日目



4日目

占星術計算の学校訪問。
数年前に1週間連続で色んなバージョンで殺される夢を見続けたことがある。
大体首を絞められるか、ナイフで刺されるかなのだが、毎回私は違う人だ。
でも殺される時の恐怖、苦しさは現実とまるで同じでいつも死ぬ寸前に目が覚める。
しばらくは周りを見回し、「ここはどこ?私は誰?」状態。まだ思考があちらに残っているのだ。少し経つと自分が誰でここで何をしてるのか思いだし、戻ってくる。そんな事が1週間連続で起こればおかしくなる。ただ、おかしくなりかけながらもわかったのは、これは現実だということ。ただの夢じゃない。こんなにもリアルな強い感情は現実でだってそんなに起こらない。つまり、私は過去世で何度か殺されているということ。
このことを確かめたくて、いつか過去世を見れる人がいれば確認したいと思っていた。
そのことをコーディネーターに話すと、「じゃあ、ちゃんとしたラマじゃないとだめね。いい加減な人に適当なこと言われたら困るから」ということである特殊的視覚のあるラマを紹介してくれた。でもそこに行くのは明日。
今日は、占星術計算学校で「見る」のではなく、「計算で」どう出るのか見てみようというわけだ。



結論から言うと、かなり意味不明だった。
私の過去世の最初は悪霊、次は人食い人種、で、象さん。そのあと人間になって(でも肝心などんな人間で、どんな死に方をしたのかはわからないとの事)今に至るとか。来世は又人食い族の女性か、象か、鳥。もしくは今世で善行をつめば違う世界の(天国の意味?)最高の家庭の最高に聡明で最高に美しい女性に生まれ変わり、右の腰と肩にバースマークがあるらしい。ついでに生年月日を持ってきて一緒に見てもらった友人の前世は天国で今に至るらしい。来世は女性で、善行を積めば僧になるとか。でも、何で天国にいた人がこの世に戻ってくるのか?私の善行を積めば来世で違う世界の。。。。というのも謎。一緒に来ていたガイドさんは来世は猿か鳥とか言われたらしい。人になった人はもう動物にはなならないんじゃなかったっけ?チベット仏教のタンカに描かれているマントラの世界観と関係があるみたいだ。それを理解しないと意味がよく掴めない。

まあ、これはざっと概論を見ただけでもっと詳しく見たければ1か月位かかるらしい(計算に)。

午後からGNHコミッションにいらっしゃるJICAの方を訪問、お話を伺う。

この方が最初にブータンに来たのは25年前になるそうだ。それから今まで色々行ったり来たりして、合計ブータン滞在歴は11年だとか。
GNHコミッションとは何をしている機関なのか?
元はPlanning Commissionという、国家計画を立てる機関だったらしい。
2008年の1月から名前を改め、GNHコミッションとなったということだ。
主な仕事はGNHという概念を目標として国を作る為の計画を作成すること。
現在取り組んでいる第5カ年計画を簡単にいうと、「バランスのとれた計画」だそうだ。
国民全員の幸せを一番に考える。しかし同時に、文化・自然を大切にしてもある程度の発展が無ければ幸せとはいえないだろうという考えも取り入れている。
この方の個人的な意見も伺う。要約は以下。
今CBSがGNHを数値化するために色々やっている。しかし、個人的には数値化出来ないもの(家族と過ごす時間、汚染の無い自然環境、人との繋がり)が大切だと思う。人は目に見え、数値化出来るものを求めるが、そうではないものが大切だと大声で言える事が素晴らしいんだと思う。余談だが、ブータンの首相は、「日本がGNHを取り入れた社会を実現したければ、一昔前に戻ればいいだけ」と言ったとか。。。

夜、コーディネーターのケサンさんの友人で、会社経営をしている同年代の男性と夕食。遅れてごめんとやってきて、お茶だけ下さいという。なぜ食事をしないのか?と聞くと、「胃が悪くて今はあまり食べれない」。
「何の仕事をしているの?」
「外国から外注された何か(なんだか忘れた)を作ってる。海外と仕事をするからには納期がある。今納期前だから忙しくて。ブータン人にその概念を理解させるのも大変だし。。。」
「今1日何時間働いてるの?」
「17時間位かな。。。」
「あなたはブータン人じゃないね!働きすぎ。だから胃が痛いのでしょう?」
現代ブータン人も結構普通にストレス社会にいるのかもしれない??

ブータン旅行3日目




3日目

2日目の夜にして気がついた事がある。
ブータンに来てから、何かが足りないと感じていた。でもそれが何かわからなかった。
良くも悪くも「何かが足りない」のだ。この国には。
最初は人口が少ないから物足りない?とか色々考えたのだが、突然わかった。
この国には、「悪意」がない。
例えばインドや中国にいくと、その土地全体から悶々と人の発する悪意、欲望、嫉妬、人から何かを奪ってでも自分が良くなりたい攻撃心のような「悪の気」の塊が向かってくるのを感じる。それがこの国には無いのだ。個人レベルで見ても、国民全体が発する土地からの気のようなものからも「悪意」が欠けている。
今では日本でも車に鍵をかけていても貴重品が入った鞄を車内に置いていこうとは思わない。ブータンでは平気でそれが出来る。ホテル内でも朝食に出る時にでも貴重品を部屋に置いたままで大丈夫かと考えるのが他のアジアだが、ブータンでは全然気にならない。
仏教の影響なのか、人のものを奪ってまでという考え自体がないような気がする。
あくまで私の個人的感想だが。

さて本題。朝一でKelki 高校を訪問。ブータンでGNHを実践するに当たり、きっと何か特別な教育カリキュラムがあるに違いないと思い込んでいた。高校での時間割などを見せてもらえればと思い、校長先生とお会いした。この高校では高校でも時間割ではなく、シラバスがあった。時間割は校長室には無かったので見れなかったのだか、GNH教育などは特に無いそうだ。
当然海外留学経験者の校長先生にブータンの教育と海外の教育の違いについて聞いてみた。
「ブータンはスプーンフィーディング式なのよ。まだまだ生徒は受け身の姿勢の教育方法で、先生が一方的に話すだけ。段々参加型に移行してるけどね」とのこと。
この高校は、第5代国王殿下の母校でもある。校長先生は当時英語担当だったそうだ。




当時の国王殿下は優秀な生徒で、生徒会長だったそうだ。
ブータンでは学年が上がるにつれ、男子生徒の数が増え、大学進学率は男子生徒の方が多くなるそうだ。女性は専門学校か結婚する場合が多いらしい。女性主権の国で?と思いそのことについてどう思うか聞いてみる。笑いながら、「いいんじゃないの。女性は子供を産んで育てることを選ぶ場合が多いからね。育児も当然男性もするけど女性がした方が上手に出来るし」。GNHの概念は家族とのつながり、一緒に過ごす時間を特に重要視している。
つまり、そういうことなのかと納得した。

余談だが、高校の図書館にシドニー・シェルダンの英語本があったりした。以外とモダン。


次に建設中のRoyal Thimphu Collegeを見学。本当に建設中で、「これから国内でも大学教育が受けられるように準備中なんだな」という程度。

次はキノコセンター。キノコの菌を培養して、農家に配布するらしい。
菌を作る容れものは殆どがビール瓶。担当者の話だと、本当は口の広いブラスチック製の容器の方が詰め易いし、高さもないので菌が早く繁殖する。でもプラスチックは環境に良くないので再利用できるガラス製を使うようにとの指示があるらしい。その場に少しだけあったプラスチック製容器を指して、「JICAがくれました。私も研修で岐阜に数か月行ったことがあります。これはしいたけ、これはマツタケ。。。」とキノコの名前だけ日本語で教えてくれた。巨大マツタケと記念撮影。


次はRoyal university of Bhutan訪問。大学だと思ってたら一つの建物だけ。
担当の方にお話を伺うと、ここはブータンの各地にある専門学校をシステム的に管理するための場所らしい。イメージとしてはリモート教育、リモート管理だ。
この日、ここを訪問した時は体調が最悪だったこともあり、これ以上の記憶が無いので以上。。。

ホテルに早めに戻り、少し休憩。
夕食はJICAの方と一緒に。こちらでの体験談をお聞かせ頂いた。
ブータンのレストランで一番難点なのは、寒いこと。
どのレストランにしますか?と聞かれ、「寒くないところに」と言うと丘の上の夜景がきれいなホテル内のレストランにご案内頂いた。ティンプーの夜景はこんなもの。
実際にブータンで生活した方の視線で見て、ブータンはどうなのか率直な意見を伺う。
「いい」らしい。お話を伺っての内容をまとめてみる。
ブータンのGNHという国家政策のポイントは「全ての国民に平等に。誰も見捨てない」事だと思う。例えば電化。国王殿下が2013年までにブータンの全ての家庭を電化すると仰ったらしい。100%の意味は、「1件も残さず」ということだ。ブータンの農村は特に、家と家の間がものすごく離れている。集落を成してない場合も多い。それを100%電化するというのは並大抵のことではない。日本なら普通は効率とそこにそれを作る意味をはかりにかけて過疎地の数%は「見捨てる」事を選ぶだろう。でもブータンは違う。100%といえば、100%なのだ。
ブータンは水が豊富にあるので水力発電による電気をインドに売っている。ある一定の場所まではこの水力発電の電線を引ける。でもとんでもない所にある1件の為に電線を引くのは。。。となると、ソーラー。それでも電化するらしい。国王殿下がそう仰ったからにはやるしかないのだ。電気局の局長は悲壮感が溢れているとか。。。

「誰も見捨てない」政策の温かさを感じるのは、それが私たち外国人(旅行者も含め)にも適応されるということ。JICAでは年に一度健康診断をしなければいけないらしい。隊員全員の費用は合わせれば数百万になる。当然その為の予算が出ている。他の国では皆当然現地の病院に支払っている。でもブータンでは医療費はただ。だからどんなにお願いしてもお金を受け取ってくれないらしい。我が国のために来てくれているんだから取れないということらしい。すごい。。。
一度、地方で任務にあたっていた隊員の方が大量吐血しながら運ばれてきたらしい。多分胃からの出血だろうが胃カメラが壊れていて使えなかった。とにかく輸血しなければという時に、その方の血液型はAB型と判明。アジアでAB型のストックは少ない。全て使ってもまだ足りない。居合わせた隊員でAB型は2名。それでもまだ足りない。知り合いの政府高官に電話相談すると、「私はAB型だ。今から行く」と自ら450CCをくれ、更に足りないとわかると政府関係者に電話を掛けまくり、10人位がすぐに集まり皆献血してくれたそうだ。
我が国の為に仕事をしてくれて、困っている人がいるから助けるのは当然だというわけだ。
すごい話だ。これが全員各省の重要ポストにいる方々の行動なのだ。優しい国が出来るわけだ。

とはいえ、そんなブータン人にもストレスはあるようだ。
癌、特に消化器系の癌患者がかなり多いらしい。
又、JICAで専属弁護士を雇う際の面接で主に扱っているケース(専門分野)は何かと聞くと、「90%は家庭内暴力」との返事だったとか。
一瞬、「女性が男性に暴力を振るうのか?」と思ったがやはり違うようだ。
女性主権の文化のブータンでは伝統的に家は長女につき、男性は家付きの女性に受け入れられたら結婚成立で、追い出されたら離婚となると聞いている。もちろん今は随分1妻1夫制で書類結婚をするケースも増えているらしいが。この追い出されるに至る過程に暴力があるのかもしれない。